掬う




 月が綺麗だったから、彼を連れ出して、飲んだ。
「こんな夜も良いだろう?」
「そうですね……物思いにふけるにはいいかもしれません」
 都の外れ、人々に忘れ去られた廃墟。
 荒れ果てた屋敷で飲む酒は、退廃的な快楽を与える。
「ここにいるとね、永遠なんてないと思うよ」
「永遠なんてありませんよ。少なくとも、私はそう思っています」
 珍しい事もあるものだ。
 いつもなら窘められてしまうのに。
 彼の顔を盗み見る。
 庭を眺めている其の顔には、いつもの笑顔。
「昔盛った橘も、今は密やかに咲くばかり。
 それは藤とて同じこと。
 今日明日とはいかずとも、いつか必ず枯れる日は来るでしょう。
 中には、永久に咲き誇ると仰る方もいらっしゃいますが」
 淡々と、いつもの調子でいつもとは違う台詞。
「花は……散るからこそ花。そうは思いませんか?」
「うん。そうだね」
 空になった杯に、酒を注ぐ。
 軽く頭を下げ、飲み干す。
「ね………酔ってる?」
「さぁ、どうでしょうね」
 いつもの笑顔。
「……そうだ。何か、貴方の望みを叶えましょう」
「鷹通?」
 顔色は全く変わっていない。
 いつも以上に飲み干してはいたが、確か、酒には強いはず。
「酒の席での戯れですよ」
 そんな私の視線に気付いて、鷹通は笑った。
「さ、友雅殿。何かありませんか?」
「そんな事言われてもねぇ……何でも良いの?」
「ええ。私に出来る範囲でお願いします」
 急に言われても困ってしまう。
 もとより望みなど持っていないだけに尚更。
 ふと仰ぎ見た空に、月が在った。
 酒の席だ。
 こんなのも良いだろう。
「月が欲しい」
「月……ですか」
「闇夜に光る月が欲しい」
 私の言葉に、しばらく鷹通は頭上の月を眺めていた。
 それから一つ手を打ち、私の方を向く。
「水面の月でも良いですか?」
「水面?」
「ええ。天上の月には届きませんが、水面ならば触れることは出来ましょう」
 それは、どこかで聞いた夢物語。
 確か、男は池に沈んでしまった。
「それではいけませんか?」
「いや……」
 彼が沈むとか沈まないとか。
 そんな事よりも。
「……私は構わないよ」
 ただ、月が欲しかった。
 私の頭上で輝くあの月が。


 池に架けられた橋の上。
「これもお願いします」
 そう言って、私が持っていた服の上に眼鏡を置く。
 小袖姿の鷹通が、私を橋の上に残して池の側へと下りていく。
 鷹通の足がゆっくりと水に浸かる。
 胸まできた所で、鷹通が私を見て笑う。
 私も笑い返して手を振った。
 綺麗に広がった髪が、吸い込まれるようにして消えてゆく。
 伸ばした手が月の端を掠めて、沈んだ。
 光の加減で、池の中は見えない。
 池は、しばらく揺れて、静まった。
「…………これは、遺品になるのかな」
 鷹通の眼鏡をかけて、池を眺めた。
 度がきつく、あたりの景色が歪んで見える。
 池には変わらず月が映っている。
 何処も、欠けてはいない。
「酒を飲んで池に?」
 悲しみとか、そういった気持ちは全くない。
 助けなければとか、そういった考えも浮かばない。
 ただ、彼はいなくなったのだと、それだけ。
 ただそれだけ。
 それだけで、世界はこんなにも静かになる。
 世界は、こんなにも色を失う。
「なんだかなぁ……」
 やる気が失せた。
 何に対してのやる気かは判らないけれど、とにかく失せた。
 この服をどうしよう。
 思い切り、抱きしめてみる。
 この眼鏡は貰ってしまおうか。
「…………?」
 歪んだ視界の中で、池が揺れた。
 眼鏡を取り、瞳を凝らす。
「……っはぁっ!」
「………………たかみち?」
 鷹通が動くたびに水面が波打ち、月が歪む。
 池からあがった鷹通は、池を眺めながら何かを考えていた。
 しばらくして、両手に水を掬ってこちらへ歩いてくる。
「すみません、友雅殿。月を取ることが出来ませんでした」
「いや……構わないよ」
 私はそれを言うのが精一杯で。
「でも、その代わりと言ってはなんですが……」
 両手に掬った水を、私の前に差し出す。
 そこに映る、赤い月。
「手を出していただけますか?」
 持っていた服を下に置き、両手を差し出した。
 差し出した両手に注がれる水。
 ほとんど零れてしまったけれど、私の手の中の小さな水溜り。
 そこに映る、赤い月。 「だめでしょうか?」
 あくまでも真面目な顔で。
 いや、本人はいたって真面目なのだろうが。
 まさか鷹通が本気で月を取るつもりだったのだろうか。
 どうしたら良いか判らず、言葉も出ない。
 そんな私の顎から目元まで、零れた滴を鷹通の唇が拭っていく。
 そのまま私の唇に重ねて。
 そっと舌で舐める。
「友雅殿……」
 頚に絡められた腕は、冷たい。
 挟まれた間で、赤い月が揺れる。
「ねぇ、これ……零してもいい?」
 せっかく貰った月だけれど。
 このまま持っていたい月だけれど。
「君を抱きしめたい」
 顔を見られないように耳元でそっと囁いて。
「構いませんよ」
 零れた水が、堕ちた月が。
 鷹通を少しだけ濡らした。
「寒いんです。友雅殿」
 口付けの合間にそう言って、微笑む。
「それじゃあ、温めてあげよう。月並みな台詞で悪いけれど」
 巧く笑えたか自信がない。



恥ずかしくて死ねる……!