携帯電話




「貴方にこれを与えます」
「何?」
「携帯電話という、一種の連絡手段です」
「ふーん」
 なんだかんだで気付けば翡翠はこちらの世界にいた。
 戸籍とかは何故だかしっかりあって。
 それなりに知り合いも出来始めたようだ。
「そういえば、周りが持てと煩かったな」
「連絡が取れないと不便なときもありますし」
 取扱説明書を見ながら、とりあえずは一通り覚えたようだ。
「常に持ち歩いていなさい」
「何だか、常に監視されているようで気に食わない」
 ソファーに沈みながら、翡翠は携帯を両手でもてあそぶ。
「私は連絡用にしか使いません。どこでどうしようと貴方の勝手ですが」
「この世界の規則を守れ。と言いたいのだろう?」
「分かっているのなら良いのです」
「向こうと違うと言うことは良く分かっているよ」
「そうですか」
 と、着信音。
 メールボックスを見てみれば。
『やっほー』
 と、ただそれだけ。
「無駄に使わないよう」
「はいはい」


 この世界での生活が長くなるにつれ、少しずつ生活がずれてきた。
『今日は遅くなります』
『帰るのは明日になる』
 そんなやり取りがしばらく続いて、ある程度固定されてきた。
 二人がそろうのは朝だけ。
 夜はお互いに不定期。
「今日は8時」
「明日になる」
 何時に帰るかを朝に言って、メールをすることもなくなった。
 休日はそろって家にいるから、話したいことはそこで話す。
 ある時、翡翠が休日も止まりで仕事になった。
 帰る時間を言って、翡翠は家を出て行く。
 私は普通に洗濯をして、掃除をして。
 静かな午後の一時を満喫しながらも、意識は手元の携帯にあった。
 メールボックスにある、未だ消されず残っているメール。
 同一人物から送られてくるそれは、ある時を境に増えることがない。
 そうなって始めて、自分がそのメールを楽しみにしていたことに気付く。
「……………認めませんよ」
 そう呟いて、一通一通消していく。
 最後に残った一通。
 日付はもう大分前のそれ。
 ただの練習用の他愛のないそれを消すため、指をボタンにかざす。
「…………………………」
 親指がしばらくキーの上をさまよう。
「あぁっ! もう!」
 そのまま携帯をソファーの上に放って、夕飯をつくりに台所へ向かった。





「ふぅ……………」
 まだ乾ききらない髪をタオルで拭きながら、ソファーに座る。
 と、昼間放ったままだった携帯を思い出した。
「いけない」
 何か連絡が入っていたかもしれないと、慌てて履歴を見た。
 来ていたメールは連絡と言うものではなく、着信は一件のみ。
「…………………」
 見慣れた名前。
 しかも、留守電に吹き込まれている。
 携帯に残る、留守電のメッセージ。
 一瞬止まった指を動かして、ボタンを押す。


 一回目。
 ピッ。


『幸鷹。これから、えぇと…………そう、電車に乗るところだ。
 もうしばらくしたら着くと思う。じゃ』





 聞いていた時間より早い。
 これを吹き込んだのが30分ほど前だから、そろそろ帰ってくる頃か。
 そのまま携帯をテーブルに置こうとして、止まる。





 二回目。
 ピッ。


『幸鷹。これから、えぇと…………そう、電車に乗るところだ。
 もうしばらくしたら着くと思う。じゃ』










 三回目。
 ピッ。


『幸鷹。これから、えぇと…………そう、電車に乗るところだ。
 もうしばらくしたら着くと思う。じゃ』















 …………四回目。


「幸鷹」


 ?


「これから、えぇと…………」


 おかしい。


「そう、電車に乗るところだ」


 何かがおかしい。


「もうしばらくしたら着くと思う」


 だって私は。


「じゃ」










 ボタンを押していない。










「!?」
「ようやく気付いたね、幸鷹」
 私の後ろで面白そうに笑う、翡翠。
「そんなに私の声が聞きたかった?」
 だめだ。
 完全に私の負け。
 やはり持つのではなかった、携帯など。
 こんな事になるなんて。
 こんなこんなこんなこんなこんなこんなこんなこんな!
「幸鷹?」
「うるさい。話しかけるな」
 携帯を見て、そこに名前がないと何故か。
 毎日見ているのに、毎日話しているのに。
 最も簡単に連絡が取れるそれに、連絡がない。
 それが物足りないだとか、寂しいだとか。
「自己嫌悪の真っ最中だ」
 繋がれたのは私。
 繋いだつもりが繋がれた。
「いいじゃないか」
 翡翠は簡単に言う。
 何のことか分かっててこの男は言う。
「だって、ほら」
 見せられた携帯のアドレス帳には。
 私しかなくて。
「他に教えるのも面倒くさいからね。なくて困る仕事じゃないし」
「…………それでは意味がないだろう」
「嬉しいだろう?」
「知るか! 私は寝る!」
「お休み、幸鷹」
 振り返りもせずに、私は自分の部屋のドアを乱暴に閉じた。
 荒くなった息を収めて、ベッドにもぐる。
 何回か寝返りをして、サイドランプをつけた。
 携帯を手に取り少し操作をする。
 最期ボタンを一つ押すと、些か乱暴にそれを枕元におき、再び灯りを消した。





『愚か者!』


「……フン」



ツンデレ。
ツンデレ?