窓の外には雪が降っていた。
 この時季ならば、それは当たり前のことだ。特に何を言って騒ぐべきものでもない。
 ガラスの窓の向こうに、見える街並み。明かりをつけない部屋の中から見るそれは、灰色で、無機質で。



 京から、この世界へ戻ってきた。
 いろいろな手続きとか、捜査とか。何とか取り繕って、両親はまた海外へ出て行った。強要はしないと言う言葉に甘えて、一人、国内に残ることを選んだ。
 考えてみれば、この国で生活をしていた記憶はない。この地を踏んですぐ京へ行ったのだ。両親から聞いたことがあるだけだった。
 京を離れてからずっと感じていたものが、雪をきっかけに膨れ上がっていく。
 ここは京とは違う世界なのだ。それは分かっているはずなのに、京で生活をしていたという事実が占めるウェイトは、思っていたより重かったらしい。

 こんな冷たい世界は知らない。
 こんな狭い世界は知らない。
 あんなに京は暖かかったのに。
 あんなに京は広かったのに。

 無性に泣きたくなって、必死で我慢する。帰ってこなければ良かったという想いを、理性で捻じ伏せて。それでも視線は窓の外に向けたままで。
 後ろのほうで聞こえたドアノブの音にも、振り返る気にもなれなくて。泥棒だろうがなんだろうが、本当にどうでも良くなっていて。
 だから、不意に聞こえた声に、反応も出来なかった。


「外は雪だよ、別当殿」
「何故…………お前がここにいるのです?」
「来たかったから」
「…………そう」
 これは夢だろうと、勝手に判断した。翡翠がこんな所にいるはずがない。彼は自由だから。こんな、小さな世界にいるはずがない。
「外は雪なのに、中は随分と暖かいんだね」
「…………翡翠、ですか?」
「それ以外の何に見えるの」
 ソファーの後ろから、私を抱きしめるように覆い被さってきたその温もりで、ようやく現実に戻った。
「君のすぐ後を追ってね。気付けば、ここを表す住所とやらが書かれた紙を持っていたので、人に聞きながら何とか、辿り着いたという訳さ」
「随分……タイムラグがあったんですね」
「たいむらぐ?」
「時間差です。私が戻ってきてから、もう二ヶ月経ってるんですよ」
「二ヶ月か。損をした気分だ」
 そう言って笑う彼の横顔を見て、また、目頭が熱くなった。慌てて俯き、唇を噛み締める。
「幸鷹?」
 声を出したら、泣きそうだった。この男の前では泣けない。この男の前だけでは泣けない。
 翡翠は顔を覗き込むことを諦めたらしく、膝を抱えていた私の手に、自分の手を重ねた。
「……悔やんでいるんだろう」
 時計の針は、規則正しく時を刻む。日の出も日没も関係なく、世界は一様な時を刻み続ける。
 その無機質な音と、無機質な風景と、無機質な冷たさと。
 それが、無性に哀しかった。訳もなく、ただ、哀しかった。
「えぇ」
 涙が零れた。
「どうして?」
 いつになく、翡翠の声が優しいから。


「こんなに世界が冷たいなんて知らなかった」
「こんなに世界が狭いなんて知らなかった」
「こんなに世界が白黒だなんて知らなかった」
こんなに世界が


 もう言葉にならなかった。
 涙が零れる中で、声だけは漏らさなかった。
 それだけは、許さなかった。
 それだけは、譲れなかった。
 翡翠が、ゆっくりと、そのいつになく優しい声で囁いた。
「でも、暖かいんだろう?」
「……えぇ」
「でも、広いんだろう?」
「えぇ」
「でも、鮮やかなんだろう?」
「………………そうです」
「それじゃ、いつか案内をしておくれね」
「私だってこの国は、あまり詳しくはない」
 無機質な音はもう聞こえなくて。
 無機質な風景はもう視界には入ってなくて。
 無機質な冷たさは、温もりに変わっていて。
「…………今日だけです」
「別に、私は毎日でも構わないよ」
「今日だけです」
「…………わかったよ、別当殿」
 耳元で翡翠が苦笑する。
「私は、もう検非違使別当ではない」
 笑いたければ笑え。
「そうだね…………幸鷹」
 お前の前で、これ以上の失態を犯す訳にはいかないのだ。
「そうです。翡翠」
 こんなことは今日だけだ。明日からはもう、普通に過ごせる。





「…………海が見たい」





「は?」
「海を見に行きましょう」
 私は翡翠の腕の中から抜け出して、コートを取りに部屋に戻った。部屋から出て、コートを着たままだった翡翠にマフラーを投げつける。
「髪は束ねて下さいね。そのままだと色々な所に引っ掛けてしまいますから。首が寒いなら、そのマフラー使ってください」
「これは……どう使うのかな」
「あ、すみません。わかりませんよね。ああ、大丈夫。何も首を絞めようって訳じゃありませんから」
 一瞬強張った翡翠を宥めて、掻き集めた小銭と数枚のお札を、小さいが使い勝手のいい財布に入れた。
 手を刺すような冷たい水で、顔を思い切り洗った。何度も何度も冷たい水を手にすくって、それが、今は気持ち良かった。
 ちゃんと鍵を閉めて、エレベーターに乗る。平気な顔をして、壁に張り付く翡翠が面白い。
「これはまた、船とは違ってなんとも……」
「貴方にも苦手なものが出来たんですね」
「まぁ、そのうち慣れるだろうけどね…………」
 雪が舞っていた。京と同じ、白い雪。
 駅員に聞いた場所のボタンを押す。出てきた切符を翡翠に渡して、私はどんどん構内を歩いた。相変わらず人は無表情だったけれど、今はただ、海が見たかったから。
 乗り込んだ電車は人でいっぱいで、ドア付近に二人で立った。窓の外では、雪が降っているのも分からないくらい速く、風景が流れていく。灰色のビルが消えて、様々な色の瓦も消えて。物凄いスピードで、全ての物が流れていった。
 駅名が告げられて、ドアが開く。
 私達のほかに降りる人はなく、二人だけが吹きさらしの駅に立っていた。
 雪が降って、どんどん積もってゆく。





 潮の、香りがした。



この話は、多分最期まで好きなのかもしれないなぁなんて。