四籠
彼が僕の構えた包丁目掛けて走って来る。十回。
目を開けば彼がインコを逃がす場面。
僕は当然怒り声を荒げ彼に詰め寄る。
彼はそんな僕を決して好ましいとは云えない笑みを浮かべて見ている。
畳の上に押し倒されて辱められる。
そこで僕はこの場面を知っている事を思い出す。
彼が僕の構えた包丁目掛けて走って来る。九回。
あの夕方を避けようとインコを逃がされた居間から動き出す。
僕は意地悪い笑みを浮かべる彼に掴みかかるのを堪える。
声を荒げないよう笑顔に努める。
どうしたらあなたはその顔を崩すのかと結局畳に押し倒される。
彼が僕の構えた包丁目掛けて走って来る。八回。
会社でなるべく一人にならないように心掛ける。
逃げ込む先には誰か人のいるように他のフロアにも気を使う。
それでも彼は本当に上手に身を割り込み二人きりになる。
会議室。給湯室。資料室。夜の八課。
僕は彼から逃げられない。
彼が僕の構えた包丁目掛けて走って来る。七回。
始まりはいつも彼がインコを逃がしてしまう居間。
抵抗してもしなくても変わらない結果。
きっとどこかにあるであろう選択肢。
探し出せないまま夕日が僕を染める。
彼が僕の構えた包丁目掛けて走って来る。六回。
いっそ彼と出会う前だったならば。
会社を辞めるという極端な選択肢だって取れる。
眼鏡をかけて雰囲気を変える前。
せめてあの休日道端で会う前。
彼が僕の構えた包丁目掛けて走って来る。五回。
日を変えても場所を変えても時間をどれだけずらしても。
不自然に会社を辞めても彼は僕を見つけ捕らえ辱める。
そして雨の日追い縋った僕を彼が蹴る。
それはどうにも動かない。
彼が僕の構えた包丁目掛けて走って来る。四回。
考えられる行動は全て試した。
その日に行かないその場所で会わないその時間二人にならない。
どれだけ歯車を外してもまたどこかで噛み合い回る。
ビルの向こうに沈む夕陽が眼を焼く。
彼が僕の構えた包丁目掛けて走って来る。三回。
ふとこれは全て無駄なのだと気付く。
耐えられなかったが故の結末なのに。
回避しようと何回も何回も何回も何回も繰り返しては最初より酷い。
前よりもっと僕は彼を覚えていく。
彼が僕の構えた包丁目掛けて走って来る。二回。
僕は何度も同じ道を繰り返す。
在るように思えた選択肢など無かった。
例え存在したとしてもそれは僕の選択肢ではなかった。
僕はこの廊下のような一本道を歩いている。
何度も。
彼が僕の構えた包丁目掛けて走って来る。一回。
あつらえたように誰もいない廊下。
突き当りの休息スペースに影が見える。
鞄に潜ませた包丁を取り出し両手で握る。
鞄は廊下に当然落ちるが音がしない。
影も気付かない。
窓から差し込む夕陽を忘れることは無いだろう。
あぁ願わくは。
願わくは佐伯くん。
幾度と無く見た君の最後の表情が僕の妄想や願望でないのだとしたら。
君が再び眼を開けたそこで君が鳥籠を持っていたのなら。
頬を伝った涙が白くなった手に落ちる。
僕は構えた包丁を彼の脇腹に突き立てる。1かい。
- [10/10/14]
- 戻る