浅い眠り
世界は広くてオレがどんなに空を飛んでもまた見たこともない景色があるに違いない。例えチミチミ歩いて世界を塗り潰したとしても、最後の場所に着いたときに最初の場所が同じだとは限らない。最後の場所を最初にしてまた歩き直したって、同じ場所にはもう戻れない。それでいいと思う。それが生きてるって事だ。時間は止まれないし止める事なんて出来ない。
「…………そりゃあ」
確かにオレ達の見た目は止まってる。何年経っても背は変わらないし皺の一つも増えやしない。一所に長く住めないのはその所為だがそれでも全部が同じな訳じゃない。部品は交換するし人工皮膚だって張り替える。昨日のオレと今日のオレは全く同じな訳じゃない。そんな事当たり前じゃないか。一日は確実に歳を取っているしその間に感じた事は昨日の自分にはなかった事だ。
「…………青いかね」
どんなに見た目が変わらずとも唯一のオレの持ち物であるノウミソは確実に歳を重ねている。はずだ。成長が無いといわれたって全く止まっているはずはないのだきっと。ちょっと自信がないが。
「それだってのにこのオヤジ……」
隣でうつ伏せになり眉間に激しく皺を寄せながらもなお眠り続けるハインリヒをオレは睨んだ。コイツは基本的にその場に留まろうとする。先へ進む事を良しとしない。率先して戦いの中に身を投じるのも、頭の中のストッパーの所為で自ら死を選べない為だ。そうやって少しでも彼女が居たあの時と差が開かないようにしている。そんな事したって時間は流れて彼女と自分との差は広がる一方だってのに。どんなに悪夢に魘されようと彼女に会えるならそれで良いらしいこの男は、今日も律儀に彼女が死ぬ夢を見ている。
「なぁ、ハイン……」
同じ時間が流れているはずなのにどんどんコイツとの距離が広がっている気がする。オレの隣に居て欲しいと願うのはワガママだろうか。いい加減に彼女を解放してやれよと思うのは他人の視点でしかない。第一彼女がどう思ってるかなんてもう永遠に解らないわけだし。というかオレ彼女知らないし。
「ハイン」
何だかんだと難しい事を考えたところで結論は簡単、オレはコイツに死んで欲しくないとただそれだけだ。コイツが死にたがりなら、オレは積極的に生きたいと思わなきゃ釣り合いが取れない。だからオレは見苦しくても生き残る。そうやって俺は生き残ってきた。
「なぁ、ハイン」
微かな起動音がして目のカメラが忙しなく動き始める。そうやって漸く俺にピントを合わせると、一度は取れた眉間の皺が再び刻まれた。
「もう一回シようぜ」
「……バカ云ってんじゃねぇ」
寝起きの低い声がオレの背をくすぐる。その声はオレを煽る事にはなっても止める事なんて出来ない。それにコイツは気付いていない。オレは布団の中にもぐりこんで無理やり奴をひっくり返すと、履いたジーパンを下着ごとずらしてしんなりとしたそれをいきなり喰った。上半身も下半身もヒトを真似て形作った鉄の上に柔らかい人工皮膚を張っただけのコイツの身体の中で、唯一まともに整形されているのがコレなんて馬鹿馬鹿しいにも程がある。コレに時間を割く暇があったなら他のところをもう少しヒトらしくしてやれば良かったのに。そうしたらコイツはもう少し前を見てくれたかもしれないのに。
「おい噛むんじゃねぇ」
「ごぇん」
見た目にこだわらないなんてのは嘘だよな。一人一人の個性があるって云ったってそれはヒトとしての枠組みの中での事だろう。で、何の話だっけ。そう、こいつの死にたがりの話だ。だからオレはハインを起こす。それがどんなにコイツの睡眠時間を削ろうとも気付く限り起こす。叩き起こして振り向かせて強引に腕を取り連れて行く。
それが丁度いいのだ。と勝手に思うことにして、忌々しげに舌打ちをして布団を剥ぎ取ったハインにオレは口の端を持ち上げた。
- [07/03/27・07/05/13]
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