焦燥




「ケイオス〜」
 夕食の食器を片付けていると、先に引き上げたはずのJr.が弱りきった顔で戻ってきた。
「どうしたの、Jr.?」
「キャビンに入れねぇ……」
「キャビンに? ジンさんがいるだろう、鍵でもかかってた?」
「いや、そうじゃないんだけどさ」
 Jr.はそういうと頭をかいた。どういうことだろうとケイオスは不思議に思う。
 男性用キャビンにはジンがいるはずだ。彼は今日よほど疲れているのか夕食を要らないと言って先に休んだ。彼がまさか鍵をかけるはずもないだろうに、入れないとはどういうことか。
「とにかく来てくれよ」
 Jr.に言われるままにキッチンから出ると、其処にはやはり困ったような顔のアレンが居た。二人に急かされキャビンの前の通路まで来て、ケイオスは漸く彼らが部屋に入れなかった理由がわかった。
「…………な?」
「あぁ、これじゃあ……入りづらいね」
 どうしたものかとケイオスは苦笑した。廊下に僅かにもれたその雰囲気でさえ彼らをこうも怯えさせるのだ。中に入るのは、よほどの事が無い限り無理だろう。
「じゃあ行ってくるよ」
「おぅ。頼む」
 彼らが近づけなかったドアの真正面に立つと勢い良く目の前に空間が広がる。そしてその中、其処に在ったのは完全なる静の空間だ。
 本来、自然には動きがある。完全に止まった空間は自然には存在しない。風が吹き水が流れそこには必ず動きがある。人工的な空間だとしても、其処に人がいれば必ず何かが動く。
 それがこの部屋には無かった。
 視線の先には背を延ばして正座をしているジンが居たが、この部屋で動いているものは自分一人だとケイオスは息を飲んだ。一歩進めば全身が斬られるようだ。どのような状況でも自分を保つ自信がケイオスにはあった。ましてやここは敵陣ではない。なのにこの冷や汗はなんだろう。かつてこんなプレッシャーを感じた事は無い。
 ケイオスが部屋に入ってきた事に気付いているのかいないのか、ジンはまだ目を閉じている。呼吸のたびに動く肩が彼が生きているのだと知らせるが、目を開け彼の位置を確認しなければ彼がこの部屋の何処にいるのか知る事は出来ないだろう。
 そういえば、彼はシャワーを浴びたようだ。いつも来ている濃い色のではなく落ち着いた灰色のキモノを着ていた。髪は結わえられることなく肩や背にかかっている。乾ききっていないのだろう、いつもよりもはっきりと光を反射していた。
 あぁ、綺麗だなぁ。
 全く関係ないかつ雰囲気にそぐわない事を思いながらケイオスは足を進める。そしてジンにあと三歩のところまで近づいた。
「!」
 不意にジンが左側においていた刀を抜刀し水平に薙ぐ。喉元に突きつけられた刃は僅かに震えることもせず其処に在った。触れていないのに小さな痛みを感じる。皮一枚斬られたかもしれない。ケイオスはそれをただじっと見ていた。見詰め合っていたのはどれ程だろう。いつもは深い緑の瞳が漆黒に見えて、ケイオスは一度瞬きをした。
「…………ケイオス君!」
 もう一度見ようとする前にジンはいつもの彼に戻り、慌てて刀を鞘に収め立ち上がる。ケイオスに歩み寄ると喉に出来た傷に手をかざした。
「凄いですね。触れてないのに切れるなんて」
「申し訳ない。大丈夫ですか?」
 ひんやりとした水のようなエーテルがケイオスの傷を癒す。ジンは傷を完全に塞ぐと、僅かに滲んでいた血を袖で拭った。
「すみません、集中すると周りが見えなくなって……」
「えぇ、そうみたいですね」
 恥じ入るように頭を下げたジンに、ケイオスは笑って見せた。
「本当に申し訳ない」
「僕はいいんですけど」
「ジン〜、ケイオス〜。入ってもいいか〜?」
 恐る恐るといった様子でJr.とアレンが入り口からキャビン内を覗き込んでいる。
「もう大丈夫だよ、二人とも」
「……ふぇ〜、おっかなかったぁ」
「情けない声上げるなよな、アレン」
「なんだよ、Jr.君だって……あいてっ」
「うるせぇっ」
 二人の心温まるやり取りを見てジンが漸く表情を崩す。殆ど投げ出した刀をちゃんと壁に立てかけると、すみませんでしたと、もう一度ケイオスに謝った。
「何か、悩んでます?」
 小声で囁かれたその言葉に、どう返そうかとジンは迷った。とっさに返せない事は肯定しているも同じなのに、素直に頷くには些か年を取りすぎている。
「いい加減、ケリをつけないといけない事なんです」
 何とかその言葉だけ口にする。他に上手く言葉が出てこなかった。
「シオンの事ですか?」
「あれも、ですが……私も、かな」
 マーグリスという男の事かと、ケイオスはすぐに思い当たる。十四年前の事も今回の事も。第三者には解らない当事者だけの思いがジンを悩ませているのだ。
「僕では、力になれませんか」
 なれる筈が無い。そうと分かっていても言わずにはいられない。
 案の定、ジンは笑って首を横に振った。
「私なんかより、シオンの側に居て下さい。あれが知らなくてはいけない事実はまだ沢山ある。その時、あれが一人にならないか、それだけが心配だ」
 僅かに俯いたその顔が、とても苦しそうだったから。ケイオスは後ろの二人に気付かれないようそっと屈んでその唇に口付けた。
「っ!」
 不意の事に驚いたジンが顔を上げる。ケイオスの肩越しに見える二人は此方に気付いた様子は無い。赤くなっているだろう顔を手で隠し、目の前に立つケイオスを咎めようと視線を合わせる。
「…………怒ってますか」
「貴方は自分を疎かにしすぎです」
「そんなつもりは、無いんですけどね……」
「貴方がシオンを想うのと同じくらい、僕は貴方を想っている。その事を忘れないで」
「………………はい」
 深く息を吐いて肩の力を抜く。降参の合図に両手を肩まで持ち上げれば、ケイオスはやっといつもの微笑みを見せた。
「個人的な事なんかじゃありませんよ。貴方の思い悩むモノがこの流れの中にあるのは確かな事です。そして貴方のそれが解決する事は、僕達に必要不可欠なものでしょう。だから、気にしなくていいんです。存分に頼って下さい」
 答えはジンとあの男でしか導けないのかもしれないけれど、ジンが、それに相対する事に悩むのなら、その背を軽く押す手伝いが出来ればいい。ケイオスが押さなくても彼なら自分で何とかしてしまいそうだけれど、その想いを知る事が出来ないのは悲しいから。余計な事かもしれないけれど、ジンはそう望んでいないのかもしれないけれど、彼には諦めてもらう事にしようとケイオスは思った。
「お腹、空きませんか?」
「…………実は少し」
「スープ温めますよ、行きましょう」
 キャビンを出て廊下を二人で歩く。そういえば髪をまとめるのを忘れたとジンは思い出した。髪紐を取りに戻るとケイオスに告げると、そっと腕を握られる。
「そのままでいいですよ。滅多に見られないものですし」
「……変な気起こしてますね?」
「ジンさんが悪いんですよ。あんな事するから。こんな格好で」
「エルザの中でやる気はありませんよ」
「エルザでなければいいんですか」
「さぁ?」
 先程までの深刻さやしおらしさは何処へやら。ケイオスににこりと笑うと、ジンは一足先にキッチンへと歩き出した。
 まぁ元気が出たならいいのかなと、一人後に残されたケイオスは苦笑した。



当初はいつものようにゆるく暗く終わるつもりでしたが何時の間にやらしっかりケイジン。あれ? しかもラブラブ。あれ? でも何となく明るく終わって良かった。かな。