ありがとうを君に
眠りに落ちた娘の頭をそっと撫でて、ユイは部屋を出る。キッチンに出しっぱなしの夕食は、すっかり覚めてしまっていた。
温めなおしたそれらを食べ、食器を片付け、食後のお茶を飲む。壁にかかる時計はまもなく日付が変わる時刻を示していた。
もう今日は来ないのだろうか。ユイがそう思いお茶を飲み干したとき、静かに、だけど何度もドアをノックする音がした。漸く来たかとドアを開けると、待っていた人物がそこに立っていた。
「遅くなりました」
走ってきたのだろうか、ヒュウガの頬は少し赤くなっている。
「その服。脱いでから来てって、いつもいっているでしょう?」
「すみません! 急いでいたもので、あ、いや、すみません……」
ヒュウガの着ていたソラリスの上官服。ユイは、ヒュウガがそれを着て訊ねてくる事を嫌っていた。妻と娘の顔を見るだけなのだから、そこにソラリスもシェバトも関係ない。二人の関係は両国とも知っているし、良く思う人間だけではないにしても、両国が彼らに手を出す事は出来ないのだから、此処へ来るときはただのヒュウガ・リクドウとしてユイは来てもらいたかった。
「まぁいいわ。本当に急いでいただろうから」
「ありがとうございます、ユイ」
叱られると思っていたヒュウガは、ボサボサの頭をかきながら満面の笑みを見せた。本当にこれが先の大戦の総指揮官だろうか。ユイは今更ながらの考えに苦笑した。
「それで……」
「その前にあなたはお風呂よ。お湯をはるから、着替えるついでに入っていらっしゃい」
「え!」
「ミドリは逃げません。今のあなたの状態では、ミドリを落としかねないもの」
悲しそうな顔をするヒュウガを浴室に放り込む。
「ちゃんと頭も洗って、最低十分はお湯に浸かるのよ? それが済むまで出てこないでね」
念を押して、キッチンに戻る。食器棚から彼専用の湯飲みを取り出し、急須と茶葉を用意する。
十二分後、浴槽のほうで音がする。ユイはそれにあわせてお茶を入れる。綺麗な萌黄色がヒュウガの湯飲みを満たした。
「さ、ここに座って」
服のボタンもろくに留めず、髪は湿ったままのヒュウガを椅子に座らせ、その髪を拭く。ヒュウガはその間に服のボタンを留め、ユイの淹れたお茶を一口のみ、息をつく。
「…………落ち着きました」
「そう、良かったわ」
水分の少なくなった髪を後ろで一つに縛る。
「髪、伸びたわね。綺麗だし、羨ましいわ」
「そうですかね?」
「鴉の濡羽色って、こういう事を云うのね」
しみじみと、髪を触りながらユイが言うと、くすぐったいのかヒュウガが首をすくめた。
「そういえば、この服は?」
「あら、気付いてくれた? 作ったのよ。でも少し大きかったわね……ちゃんと採寸すれば良かった」
「上手ですよ。ユイは器用ですね。私なんか、機械弄りしか能がなくて」
「でも私、機械は苦手だわ」
「それじゃあ、ちょうどいいですね」
「そうね。ちょうどいいわね」
二人で笑いあう。ヒュウガの湯飲みも空になった。
「隣の部屋よ。いきましょう」
「あ、はい」
少し緊張した様子のヒュウガが面白い。ユイはくすりと笑って、彼を隣の部屋へと案内した。
「あら、起きてたのミドリ。お父さんが来たのに気付いたのかなー?」
ユイが抱き上げた娘。その大きな茶色い瞳がヒュウガを映した。
「さ、ヒュウガ」
ユイに名前を呼ばれて、ヒュウガは慌てて腕を出した。そっと乗せられた小さな生き物は、両手両足を動かしながら、じっとヒュウガを見つめている。
「ユイ、ユイ……」
どうしていいのかわからなくて、ヒュウガはユイを呼んだ。
こんな生き物は知らない。こんな、今にも壊れてしまいそうな小さな命を自分は知らない。顔のつくりはユイに似ている気がするが、その大きな瞳の色が自分と同じだった。自分の血をひくこの小さな命が、ヒュウガにはとても恐ろしく、そしてとても愛しく思えた。
「ほら、座って」
ユイが持ってきた椅子に座り、ヒュウガの恐怖感は少し薄れる。これで落とす事はないと、それだけで少しほっとした。
「ほら、ミドリ。お父さんよ」
ヒュウガとミドリの前に座ったユイ。その声に反応して、ミドリの顔がヒュウガから逸れた。
「あなたも名前を呼んであげて」
促されて、ヒュウガはおずおずと口を開く。
「ミドリ」
大きな目が再びヒュウガを捕らえる。
「ミドリ」
片手で、彼女の頬を触ってみる。想像以上の柔らかさに、全身を包んでいた緊張がほぐれた気がした。
「緊張した?」
「したどころの話じゃないですよ。椅子を貰わなかったらあなたに即返しましたよ」
「今にも泣きそうな顔をしていたわ」
「事実泣きそうでした」
二人で笑う。ミドリは、そんな二人の顔を見比べていた。
「本当に、私たちの子どもなんですね」
「そうよ。正真正銘、あなたと私の娘よ」
「娘かぁ……昔、先輩に言われたことがあるんです」
ヒュウガは、ミドリの頭を撫でながらジェサイアに言われたことを思い出した。
「お前は早く結婚して子どもを作れって。そして親バカしろって」
彼の言いたかったことが、今なら少し、わかる気がした。
「しかも先輩は予言したんです。お前の子どもは娘だって」
「まぁ、凄い先輩ね」
本当に凄い人だった。先の大戦でシェバト側についたと聞くが、その後どうなった事やら。
「で? 親バカになりそう?」
「なるかもですね。こんなに可愛いとは思いませんでした」
「失礼な人だわ」
「はい、すみませんでした」
ヒュウガは再びミドリの頬を撫でた。大人しく撫でられるままだったミドリは、そこで両手を使い、はっしとヒュウガの指を挟んだ。そして動きを止めた父親の人差し指を、その小さな手でしっかりと握り締めた。
「ミドリ、お父さんと握手ねー」
あーくーしゅ。そういいながら、ユイはミドリの腕を小さく振る。釣られてヒュウガの腕も少しだけ振れた。
『お前は、こうやって手を握ってくれる誰かが欲しいんだよ』
「……」
「ヒュウガ?」
あの日に全てを無くしてからは、それをずっと諦めていた。シグルドやラムサス、ジェサイアが思い出させてくれたのに、自分はまたそれから目を背けていた。
「…………嬉し涙?」
「はい……」
確かに欲しがっていたそれらを、自分は今手に入れられた。それが、どれだけ幸せな事か。どれだけ嬉しい事か。
「ありがとう、ユイ、ミドリ」
「わかっているならいいわ」
満足そうにユイが頷く。ミドリ用の小さなタオルでヒュウガの顔を拭うと、その場に立ち上がってヒュウガに笑いかけた。
「そろそろ私たちも寝ましょう。明日は、ゆっくりしていられるのでしょう?」
「えぇ、暫くは大丈夫です。休みをもぎ取ってきましたから」
ず、と鼻をすすってから応える。
「お風呂へ入ってくるわ。その間に、ミドリを寝かせておいてね」
「はい。行ってらっしゃい」
ミドリの手をそっと振ると、ユイも笑ってそれに手を振りかえした。
ヒュウガは椅子から立ち上がり、部屋の電気を切って暗くした。そのまま部屋をゆっくりと歩き回ってミドリを寝かせにかかる。
「ミドリ、起きてくれてありがとうございました。もう眠ってもいいですよ。また明日、お話しましょうね」
全く未知の事ながら、身体を揺らしたり背中を優しく叩いたり、思いつく限りの事をしながらヒュウガはミドリに語り掛ける。ユイにやり方を聞けば良かったと彼が後悔しかけた頃、愛しい娘は漸く眠そうに瞬きをした。
「おやすみなさい、ミドリ。また明日」
小さな口をいっぱい使ったあくびを一つしてから、ミドリは安らかな寝息を立てた。
- [07/01/14]
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