三マス進んで五マス下がり足踏み




 傷が熱を持ち左脇腹がジクジクと痛む。エーテルで粗方の止血はしたものの、体力のない今これ以上は無理だった。後は軍の医療施設に戻ってそこでと思ったが、ミルチアが無くなってしまった為に急遽近隣の星に設営された施設はベッド数が圧倒的に足りず、至る所に怪我人が転がされていた。ナノ治療用の設備が足りないのだろう、最近では珍しい糸と針があちらこちらで使われている。本来ならば麻酔が必要なのだが、重症患者の中には下手にそれを使えない患者もいる。その場合は悲鳴に耳を塞ぎショックで死なぬよう祈りながら一秒でも早く縫い終わるために黙々と手を動かし、搬送用の出口へと送るしかない。
 シオンは他の住民がいる仮設テントに預けてきた。こんな所へ連れてくるつもりは毛頭ないが、それでもシオンがこんな惨状を眼にする事がなくて良かったと思った。それ以上のものを眼にしているとしても、更にそんなものを見せたくなかった。
「貴方は、止血はしてありますね。それではあちらの」
「いえ」
 側を通りかかった、医療班の腕章をした男が案内しようとするのをジンはそっと制した。
「針と糸を頂けますか。後、生理食塩水があれば」
「医術の心得は?」
「人の命は背負えませんが、自分一人の面倒を見られる程度には。どうぞ、私の分まで他の方を看てください」
「……わかりました」
 迷っている暇はない。その男はジンに道具と抗菌薬を幾つか渡すと、会釈をして別の怪我人の許に走っていった。ジンはそれを少し見たあと、部屋の隅の方に小さな空間を見つけて座り込んだ。ボロボロになった軍服を脱ぎ、一部を小さく破り取って口に咥える。両手と傷口を洗い消毒してから、一息、諦めたように苦笑して溜息をついた。





 結局、炎症しただかなんだかでもう一度傷を開かれた。その頃にはもう熱にうなされていたので詳細には覚えていない。こうなると傷を消す作業は別になるらしい。ジンは断るつもりだったが、傷が治ったときに改めて、と冷却ジェルを額に張られた。ジンはシオン共々第二ミルチアの病院に運ばれ、この後更に一週間ほど高熱にうなされる事となる。





 夢も、何も見なかった。まるで死んでいるかのように暗闇の中で横たわっていただけだった。そこは静かで、それでもいいかなと、熱にやられた頭は思う。目が覚めて、白い清潔そうな天井や壁と頭上から柔らかく降り注ぐ日差しに思わず泣きたくなるほどに、その世界は心地良かった。
「大尉」
「…………中将」
 ジンが眼を覚ましてから二日後、訪問してきたのはヘルマーだった。
「ファイルは、カナンより受け取った。ご苦労だった」
「いえ……役目を完遂できず、申し訳ありません」
 ベッドの上でジンは深々と頭を下げた。ヘルマーはそれを上から見下ろしていたが、暫くして近くの椅子を引き寄せ座った。
「君にかける言葉が見つからん、大尉」
「そんなに気を使わないで下さい。私も、妹も、生きていますから」
「そうだな……」
 生きて戻っても尚この世は地獄だ。ヘルマーは先に見てきたシオンの様子を思い出し溜息をつく。あの子も、この部下も、乗り越えてくれれば良いが。
「この病院には他にも私のような?」
「他というか、全てだな。主に重傷者を入れている。通常の患者を一緒にするわけにはいくまいよ」
「えぇ、そうですね」
「こういう言い方をするのもおかしいが、君は大丈夫か」
 肉体ではなく、精神の方は。
 静かに問うヘルマーの声が沁みていき、ジンは三回瞬きをした。大丈夫といえば大丈夫になる。それで全てを封じるのは最後の手段だ。
「わかりません……そう思えば、きっと生きていけるとは思いますが」
「思うな。その必要はない」
「はい」
「歪みはゆっくりでも初めのほうに治さねば、あとで大きく崩壊する」
「努力はしてみます」
「適度にな。何事も度が過ぎるのは良くない。特に君はそのタイプだからな」
「そうでしょうか……」
「違うかもしれん」
「中将……」
「さて、それでは失礼するよ。また来る」
 ベッドから降りて見送ろうとするジンを手で制し、ヘルマーは椅子から立ち上がった。ドアへ向かうその背中に、ふとジンは思い出した疑問を投げる。
「すみません、私の刀は?」
「私が預かっている。日本刀を扱える人間が生憎君しかいなくてな、申し訳ないが汚れたままになっている」
「ここに持ち込む事は出来ますか。手入れを、したいのですが」
「出来ない事はないと思うが、君次第だ。死なれては困るのでね」
 ジンは返事をしなかった。自傷に走るつもりはないが、それもわからない。自分で自分がわからないのは初めてだ。私は誰かを斬るだろうか。
「……近々届けさせよう。私の願いを裏切ってくれるなよ」
「ありがとうございます」
 自分を分かってくれていると、ジンはヘルマーに深く頭を下げた。その一言で自分は此方に身を繋げる。頭を上げて出て行くヘルマーを見送る。そのドアが閉まる直前、ジンは、そっと声をかけた。
「…………彼らは」
 ヘルマーはその小さな声を聞き逃さず、再びドアを開けた。開けるだけで部屋の中には踏み込まない。
「それが君の生きる理由になるなら伝えておこう。マーグリスの配下のものが十数名、他部署からも数名行方不明者が出ている。勿論、ペレグリーも含まれている」
「そう、ですか」
「彼らは以前からマークしていた人間達だ。そしてミルチア離脱時に、一部の艦が同宙域から離れていく所属不明艦隊を捕らえていた。これで終わったと思うか? 大尉」
「いえ、これから始まるのでしょう」
「……傷を癒したまえ」
 ヘルマーが今度は完全に扉を閉めるのを、ジンは最後まで見届けてから再び横になった。
 頭上から降り注ぐ日差しから逃げるように頭まで布団に潜る。それでもなお届く光を両手で遠ざけ、少しでもあの夢の場所に近づけるようにと、ジンは体内を流れる血の音に耳を傾けながらそっと瞼を下ろした。