お帰りなさい私の貴方!




 マフラーを巻いて外に立つ。ミドリには手袋をはめさせた。他にも彼らの帰りを待つ人たちが基地の外で地平線を眺めている。
 いつもならまだ寝ている時間にミドリが起きてきたのは二時間ほど前だろうか。外はまだ暗かったが昨日とは違う雰囲気だった。終わったのだとユイは確信する。それから二人で外に出て、ずっと地平線を見つめていた。まだ日の出ないうちから外に立つ二人を不思議に思った人が窓から外を眺め、そのうち一人二人と人が増える。皆、彼らが帰ってくると確信してそこに立っていた。
「寒くない? ミドリ」
 ユイの問いに、ミドリはこくりと頷く。彼女はユグドラの船員から渡されたホットミルクを手にしている。ユイもコーヒーを持っていた。
 基地の中で待っていても良かった。あの時点で彼らが戻ってくるまで大分時間のかかる事をわかっていたが、それでも外で待っていたかった。あの人が最初に見るものが、ミドリであって欲しかった。ミドリも外で待ちたがり、それがユイは嬉しかった。
 既に陽は昇り、遠くに見える山脈も光り輝いて、雪の照り返しも一歩先まできている。そういえば日焼け止めを塗っていなかった。ふと思ったユイの前に瓶が差し出された。褐色の手はあの人の親友の手。感謝を述べて瓶を受取り、ミドリの顔に塗る。自分も顔と手に塗った。そして瓶をシグルドへと返す。彼は一緒に空になったカップも引き取ってくれた。一度両手に息を吐き、ミドリと再び手をつなぐ。
 それからどのくらいだっただろう。手にまだコーヒーのぬくもりが残っていたから、そんなに経っていなかったと思う。ミドリがつないだ手に力を入れた。それから二秒後に地平線に黒いものが見えた。どよめきが聞こえた。誰もが駆け出したいのを待っている。黒いものが段々と大きくなり人の形を成し、それが皆が待ち望んでいた人達の形となった。


 誰かが叫んだ。


 一斉に飛び出す人達の中、ユイとミドリはゆっくりと歩き出した。こちらに気付いた黒い影が走っているのが見える。途中で二つは合流し大きな集団となった。ミドリは駆け出そうかどうしようか迷っていた。本当は駆け出したかったのだが、つないだユイの手が解けなかった。見上げた母は今までに無い表情で、だからそのユイの手を離して一人駆け出す事が出来なかった。人は既に二人を追い越して彼女達の後ろにも殆どいなくなった。黒い影は輪郭を持ってその表情までもが見える位置に来る。誰も皆笑って、泣いて。その中に待ち望んだ人を見つけた。その瞬間ミドリの視界が一変した。ユイが彼女を抱き上げたのだ。ユイはミドリを抱いたまま駆け出し、その輪の中へと入っていく。待ち望んだ人は二人に気が付き、彼女達の名前を口にしようと唇を動かした。
「ミドリ、ユ……いっ!?」
 ユイはミドリごとシタンに飛び込んだ。
 走ってきたと言ってもまさか飛び掛られるとは思っていなかったシタンは二人を受け止めきれずにそのまま後ろへ押し倒され、周りが慌てて避けた雪の上に三人は倒れこんだ。
「……ったぁ……! ミドリ大丈夫ですか!? あぁユイ、あなたいきなり」
 顔だけ持ち上げて二人を見ると、ミドリはシタンの胸の上で顔を上げて父親を見ていた。とりあえず何もなさそうだ。ユイはと言えばシタンの肩口に顔を埋めている。シタンは言葉を切って彼女の肩に手を回した。頭を再び寝かせて、青い空を見上げる。三人を覗き込む人々は、少し輪を広げて彼らだけの空間を用意した。
「ただいま帰りました」
「……おかえりなさい」
 ユイの背中を撫でながら、シタンはこちらを見るミドリに、左手の人差し指を口に当てて内緒だとメッセージを送る。ユイの肩は細かく震えて、耳元では鼻をすする音が聞こえた。
「ただいま、ミドリ」
 先ほどの返事と今の返事をあわせてミドリは頷くと、再び父親の胸に頭をつけた。頭を撫でるシタンの手がこそばゆかった。
 三人でしばらくそうして、シタンの背中がそろそろ冷たくなってきた頃、ユイは顔を上げた。その目元が赤いことに気付かないふりをする。三人は身体を起こし、シタンはミドリを膝の上に抱き上げた。母親が目元を拭う間、父親は彼女と娘に付いた雪を払った。ミドリはそんな二人を眺めていた。もう父親を覆う影は見えない。今頭上に広がる空のようにすっきり皆晴れ渡っている。今なら何か云える気がした。何か、云わなければと思った。
 ユイが先に腰を上げ、それにシタンも続こうとしたところで漸くミドリの左手はシタンの長い髪を掴んだ。
「? どうかしましたかミドリ?」
 再び雪の上に腰を落とした父親を、じっと正面から見つめ何度か唇を動かす。それをじっとまつシタン。そして落とされた言葉に、彼は危うく涙しかける。
「…………おかえり、なさい」
 それは娘から彼にかけられた始めての言葉だった。全てはこの言葉一つで報われた気がした。
「えぇ……ただいま。ミドリ」
 ユイはその二人を上から見ていた。娘を抱きしめる父親。それに少し妬きつつも、訪れた幸せな時に笑みを隠せない。娘を抱いて立ち上がった夫の、空いている腕を奪って腕を組むと想像の通りシタンは照れて逃れようとした。しかしユイはそれを許さない。困ったなぁと苦笑するシタンは、しかし嬉しそうだった。
 そんな三人に周りが囃し立てる。主にそれはシタンとともに戦った少年二人からかけられたものだったが。ユイはそんな周りを見てくすりと笑うと、少し背伸びしてその頬に口付けた。途端に周囲が沸く。
「ゆ、ユイ!」
 慌てる夫がおかしくて、ユイは笑い声を上げた。
「せんせー! そこで黙ってちゃ駄目だって!」
「そうだぜ先生!」
 先の少年二人が更に煽る。何云ってるんですかとシタンは二人を睨みつけるも、二人に加えて旧友と先輩がムフフと横で笑っていた。咄嗟に視線を外したが、でも、今なら勢いで言い訳が出来る気がした。
「ユイ」
「はい?」
 彼女の名前を呼んでこちらを振り向かせて。そっと、その柔らかな唇に口付けた。





 その時は一瞬だったか永遠だったか。





 僅かの間をおいて沸いた周りに、ユイは盛大に顔を赤くした。咄嗟に何かを言おうと思ったけれど、目の前で笑うシタンを見ればそんな言葉も消えてしまう。だからその手に指を絡めて今まで以上に強く腕を抱きしめた。
 そんな賑やかな輪の中で唯一眉間に皺を寄せている人間が一人いた。彼女はどうしたらいいかと暫し考え、がしっと両手で彼の顔を掴んだ。そして頬に口付けた。唇は、流石に母親のものだから。
「み、み、み、みっミドリっっ!?」
 片方の頬は自分のもの。



最終戦後。ウヅキ一家大好き。
お祭投稿作品。