寂寞




 痛みはなかった。ただ熱かった。顔の右半分を上から下まで。何かが通ってそこが切れた。吹き出した血の熱さを覚えている。悲鳴は上げない。喉の奥で潰す。それが、せめてもの抵抗。新しく引かれた筋に貴方が親指を捻じ込む。光を遮断するはずの瞼を裂いて指が眼球を圧迫する。光と圧力と溢れる赤。唇の隙間から染み込んだ血が口の中を鉄臭くする。親指はそのまま筋を辿り僅かに掠った唇へ辿り着き抉じ開けた。流れ込む血を飲み込もうにも上手く飲み込めず、噎せ返り吐き出しても指はそこから動かない。
「何なら」
 血が鼻の奥を焼いて痛い。それよりも更に奥から声を出すと、半分の視界で貴方は眉を顰めた。飲み込めない血を口の端から唾液とともに垂れ流す。いちいち吐き出すのは面倒で、ならば垂れ流しにしようと諦める。そうしなければまともに言葉も話せなかった。
「貴方の左脇腹も斬りましょうか」
 そうすればおそろいでしょうと斬られていない左側の口の端を持ち上げる。貴方は愉快そうに笑って親指の代わりに人差し指と中指を口に突っ込む。私はその意を理解して丁寧に舌で舐めて差し上げた。唾液と血が一対三の割合で指に絡まる。貴方は自由な右手を私の喉元から一気に下まで下ろしてボタンを弾く。貴方は器用に私の服を片手で脱がせていく。私も身体を動かしてそれを手伝いはしたが、一体この人はそれをどこで覚えてきたのだろう。顔の右半分は熱くジクジクとその存在をしつこく訴えるが、この人と同じに為れたのだと思えばそれすら愛しい。血が唇から咥内へと浸透し喉の奥を焼き鼻の奥が痛むのにももうそろそろ慣れる頃だ。あの人が常に纏っていた鉄の臭いを肺一杯に吸い込めば痛みも何処かへ飛んでゆく。
 顔から溢れる血が服を通り越して皮膚を焼いた。だらだらと飲み込むのを諦めた唾液とともに私の身体を濡らしていく。貴方がそれを右手で塗り広めて、そうする間に左手が私を暴いていく。乱暴に暴れる二本の指に圧迫感を感じたのも最初だけ。後は勝手に慣れた身体が慣れた感覚を拾ってゆくだけ。右顔面の主張もその前では何にもなりはしない。ただ欠けた視界で貴方を見つめなければならないことだけが少し残念ではあったが。
 どんなに性急でも拒んだ事はない。それは選択肢の中に無かったから。だから今貴方が事に及ぼうとしても私は無事な左の顔を笑顔で満たして貴方を迎えた。息が止まるのはいつも同じ。貴方はこちらを思いやる事などしないから。いつも一気に身体を進め、そこで暫く時を待つ。私はいつもなら両手でシーツをつかんでその時を待つのだけれど、今日はそっとその背中に手を回してみた。女々しいその行為をいつもの貴方なら鼻で笑ったのだけれど、今日は何故だか何の反応も返しはしなかった。だから、少し傷が疼いた。
「……たいさ」
 実際そう貴方を呼んだのはそんなに長い時期ではない。ポンポン階級を上げていく貴方がその地位にいたのはほんの僅かな間だけで、時期だけでいけば中佐や少佐と貴方を呼んだ時期の方が長かっただろう。でも私にとって貴方はいつまでもずっと大佐のままだ。あの日のまま、私と貴方の時間は止まっている。否、私だけか。止まっているのは。私が大尉で貴方が大佐。決して縮まる事のない距離を残して貴方は去り、私は今もあの日に根をはって動けないまま。
「うぁっ、はっ、あっ」
 この行為に意味を見出した事などない。ただ、そこにあるから。理由なんてそれだけだろうし、それでいいのだと思う。私も女性を抱いたし、あの人も抱いた。別に、それに何の意味もない。貴方も私の向こうに何かを見てただ極めるためだけに動いている。私はといえば何も考えずただ与えられる快感に身を委ねていただけだ。それだけなのだ。
「あ、あぁっ、あぁ、あ!!」
 最後の時なんて覚えていない。全ての始まりはあの星、あの場所、あの、雨の日。




















「ジンさん、おはようございます」
 ケイオス君の声が聞こえる。その向こうでJr.君。アレン君は既に起きているようだ。
「珍しい事もあるもんだなぁ……ジンが俺より遅いなんて」
 まだ少し眠気の残った声でJr.君が言う。
「たまにはそんなこともありますよ、ねぇジンさん」
 アレン君の声に笑って返す。彼はそのまま朝食の準備にとキャビンを出て行った。
 身体を起こして右手で顔を触る。ひたすらに熱かった。この感覚を知っている。この痛みを知っている。それも暫くすれば薄れていった。それがとてつもなく寂しかった。
「大丈夫ですか? 何処か調子でも?」
 いつまでも俯いた私にケイオス君が声をかける。私はそれに左手で答え、何もないと告げた。そしてそっと右手を外すと薬指の先のほうから手首の方まで赤い線。
「ジンさん!?」
「ジン、お前、それ……」
「大丈夫。ちょっとした置き土産ですよ……夢のね」
 ともに行ければ良かったと、そう思えたらどんなに幸せか。



危うくペレが出そうになりました。
ややこしくなったので削除。