微温湯
「また昇進したようだな」
部屋に入るなり、部屋の主はそう云って楽しそうに口の端を持ち上げた。
「何か贈ってやろうか?」
「結構です。ろくでもない物が来そうな気配がしますので」
「そういうな。礼服でも一つ仕立ててやろう。今度それで俺の前に立て」
さぞかし似合うだろうなと、マーグリスは肩を振わせ笑い始めた。彼の頭の中では、小学校入学の時に撮ったきちっとおめかしをした半ズボンジンの写真が再生されているのだろう。
「貴方も昇進されたようで、おめでとうございます。マーグリス、大、佐」
ねちっと嫌味を込めて云っても彼には届かない。鼻で笑われて終わってしまった。
「それで? どういった御用件ですか」
「特に意味はなかった。が、そうだな、昇進祝いを貰ってやろう」
貰ってやろう! 呆れるくらいの傲慢さ。だがそれが似合ってしまうのがこの人なのだ。まるで人の上に立つ為だけに生まれたようなこの男。
ジンは諦めて渡されたグラスのアルコールを飲み干した。
背後から圧し掛かる男が右手を後ろに捻り上げている。何かを掴みたくてジンは左手を動かしたが、上質なシーツは滑るばかりで皺一つ掴めない。イヤイヤをするように首を振る。何か何処かを動かさずにはいられない感覚。引き攣った喉が笛のような音を立てた。
「……っ」
息を呑む音が聞こえ、一層強く腰が打ち付けられる。僅かに遅れて熱いものが腹の中を満たすのをジンは感じた。だがジンはいき損ねた。弛緩も出来ずこれ以上緊張も出来ず、髪の隙間から後ろを覗き見る。マーグリスは暫く目を閉じていたが、視線に気付いたのかジンを見るとニヤリと笑った。
「そう、恨めしそうな顔をするな」
言うと同時に自身を引き抜きジンを裏返した。彼が身動きを取れぬうちに右足を肩に担ぎ上げると、再び奥深くへと楔を打ち込む。ジンは右手人差し指を噛んで上がりそうだった声を抑え、半分無意識で左手を持ち上げたが、捕まるところを見つけられなかったそれは宙を虚しく掻いた。
果てたばかりだというのに、それは充分すぎる質量をもってジンの中をかき回す。ジンは、一度逃げた波を取り戻そうと噛み締めた指から伝わる痛みに意識を集中させた。
「声を殺すな」
低く静かな声が腹に響く。この声は苦手だ。逆らえない。痛みで戻った僅かな理性も、きっとすぐなくなるだろう。指を離した後耐えられたのはほんの数十秒だった。一度声を上げれば堪えるのは難しい。それは閉じていた感覚を開くのに似ていて、ますますジンを煽る。
「……っ、はっ、あ、ぁっ」
きつく閉じた瞼の裏が白い光を放つ。目を開けていられないから閉じたのに、閉じた先でもこれでは目が回る。ジンは恐ろしくなって目の前にいるはずのマーグリスへと両手を伸ばす。何度も空を切り、数度肌を引っ掻き、漸く指先がマーグリスを捉えた。音にならない空気の震えで、彼が笑っていることを知る。
「お前はそうやって俺の下にいろ」
マーグリスは、人を使う人間だ。そしてきっと、ジンは使われる人間だ。
決してその雰囲気は彼の近くに人を寄せ付けはしないけれど、視線を留めるには充分だ。昔から、子どもながらに周りとは違う人間だと思っていたが、同じ軍に入ってその思いは増すばかりだった。彼の下で、彼の命令で動けることが嬉しいと思う。役に立ちたいと思う。
恐らく、それは危険な事だ。
考える事を放棄しかけた頭が警告を発する。
マーグリスは、自分が足りないと思う何かを、それが何かを気付かせぬままに埋めて充足感を与えてくれた。本当は埋まっていないのかもしれないが、満たされたと思った時点でそこはもう埋まっているに等しい。その幸福感を手放すことは難しいだろう。
例えば、世界が崩壊でもしない限り。
「随分といい顔をするようになったな」
嘲るようにマーグリスが笑った。その微かな笑い声が、ジンの鼓膜を震わせ思考を溶かす。
僅かな警告音は、溢れ出る欲情に呑まれて消えた。
- [08/06/30]
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