壁一枚




 ゆらりとベッドの上に身体を起こす。すっと頭が冷えて眩暈がした。両手共に指先まで冷えて痺れがある。両足にそういった症状はないが多少動かし辛い。一体どのくらい寝ていたのだろうか。とりあえず目覚める事は出来た。
 俯いていた頭を持ち上げ閉じていた目を開く。右の視界には色が無く、左の視界には異なる者達。こめかみに鈍い痛みが走り顔を歪める。懐かしい景色ではあったが今の自分には少々負担が大きい。再び目を閉じ大きく息を吐く。思った以上に損傷が激しい。暫くは無理かもしれない。
「ウヅキさん!」
 ドアが開く音と慌てたような男の声。右目だけを開けてそちらを見る。
「大丈夫ですか?」
「……ぁ」
 大丈夫と言おうとしたが声が出なかった。舌や声帯が上手く動かない。数日かかるか。そう判断する。
「声が出ませんか?」
 頷く。
「一過性のものかな……そうだ、ここがどこかはわかりますか?」
 思い出したように医師が問う。震える唇を動かして病院と形作った。
「左目は? 見えませんか?」
 だいじょうぶ。
「……手と足はどうですか?」
 足をそっと動かしてみせる。手は肩までしか動かせない。
「起きたばかりで申し訳ありませんがこれから検査しましょう」
 すぐに来た車椅子に移される。動かない両手は足の上にそっと置かれ、背凭れに深々と凭れ深い息を吐いた。そっと左目を開ける。先程よりは幾分かましだがまだこめかみに痛みが走る。そこに漂うものは昔から良く知っている。先日の事件に関わる事でそれが何であるのかも解った。ミルチアから近い所為だろうか。昔見たときよりも明らかに量が多い。
 まだそちらには行かない。
 手を取られ招かれるが首を振って断る。今はこんなざまだがまだやる事がある。様々な気配が側を通り過ぎる。中にはあの日にすれ違ったものもあるだろう。此処と其処は紙一重。壁一枚隔てた向こうはいつだって異世界だ。そんな薄い言葉を何処かの本で読んだ事がある。
 ふと思い出したそんな事にそっと小さく笑う。それに気付いた医師がこちらを見て、安心させようとしたのか笑いかけた。応えておいても支障はないと笑い返そうとした瞬間、間違えるはずなど無い覚えのある気配が左目を後ろから前へ通り過ぎた。すぐにそちらに視線を向ける。はっきりとした輪郭など持たないそれらは、でも確かに意思を持って車椅子の周りを何週かしてからどんどんと遠ざかっていった。
「……あっ」
「ウヅキさん?」
 逝かないでなんて云えない。ごめんなさいと謝れもしない。安心してと伝えられもしない。そんな言葉は何も持っていない。言葉なんて形のあるものを今の彼らに届ける事は出来ない。それでも身体は彼らを追う。何とか車椅子から立ち上がったがとたんに力が抜けてその場へ倒れこむ。肩を使って顔を上げその方向を見つめる。気配はもう僅かな香りだけだ。
「あー……あー!」
 左右の視界がぶれてぷっつりと途絶えた。熱暴走だ。吐き気がするほど頭が痛い。
「ウヅキさん、ウヅキさんっ」
 折角繋がった神経が切れていく音が聞こえる。もう寝ているわけにはいかない。とりあえず今はこの瞬間だけ動けばいい。抱き起こされ車椅子に戻され、大丈夫かと顔に手を当てたおそらくは医師の手を掴んだ。視力の低下と頭痛とを訴えると、頭上で慌しく指示が飛ぶ。
 痛むのは生きているからだと、小さい頃転んで膝を擦りむき泣いた時誰かに言われた。身体も心も生きていなければ痛まない。痛むというのは生きている証なのだ。だから痛みがあることに感謝しなければならない。
 そうやって生きていくのだ。生きる理由がある限り、それが如何なるものであろうとも、手や足がもがれようとも生きていく。そう決めた。


 そう、決めたのだ。



→ 「利休色」
人って結構頑丈だったりはしますけど、この兄さんは頑丈すぎやしないか。