貴方を見つめない




 知り合いが死んだ。
「……は?」
 確かに驚いた。久しぶりにその名を聞いたと思えば、その男が死んだという。それは驚く。驚きもしよう。だがそれよりも、なぜその名前が上司から出てくるのだろう。あの男との関係を職場で言ったことはないし、ありがちな噂にも上ったことなどない。そもそもあの男はこの建物のある半径五キロ圏内には足を踏み入れたことがない。あの男の言うことを信じれば、の話だけれども。
 無口で高圧的でだが確かに実力もどうしてだかわからないけれど人望もあるこの上司とあの男との接点など皆無に等しい。ついでに言えば私も会話などしたことがない。
「簡単だ。昔、あいつの祖父に剣道を習っていた」
 世界は狭いと身をもって体験した。あまりにあっさり納得したのでやりかけの仕事に戻ってしまった。
「通夜は今日、葬式は明日だ」
 再び仕事から意識が離れる。壁にかかる時計を見れば、当たり前だが当の昔に終業時間は過ぎ、出来れば今すぐ帰って湯船で手足を伸ばしたい時間である。
 理性が何かを訴える前に、身体は目の前のブラウザを閉じ電源を落としていた。荷物を掴みコートを腕に引っ掛けたときには既に身体半分ドアから出ている。
「今週は休みでいいな」
 タイミングよく扉は閉まった。



 現実なんていうものは、目の前にあるものだけが全てだ。
 だから、移動の車内で私はまだあの男の死を信じられずにいた。
 信じたくないから信じないというんじゃない。
 ただ、なんと言うか、本当に驚いたのだ。
 あの男が、死ぬなんて。



 昔一度だけ行ったことのあるあの男の実家。すでに喪服の人間が幾人か居た。しっとりと遠くの景色が霞む霧雨。参列者の悲しみをより深くするには十分だろう。私は悲しくなかったから良くわからなかったが。
 それよりも、こんなに友人やら知り合いやらとりあえず建前だけでも死を悲しむ人間がいたことに驚いた。私は、結局あの男について見える以上の事は何も知らなかったのだろう。
 受付から少し離れたところでぼんやりしていると、その視線の先から一人の女性が近づいてきた。見覚えは、あった。
「今日は雨の中、兄のためにありがとうございます」
 彼の妹だ。写真で何度か見たことがある。
 その場でいくつか言葉を交わし、そして気づけば私は火葬場に居た。周りに知り合いなんて誰も居ない。あえて言うとすればこの妹だが、それだって会ったのは今日が始めてだ。他に特に考えることもないので、手の中の湯飲みを揺らしながら彼の死に顔を思い浮かべる。
 やはり、あまり悲しくない。大体別れたのは一年ほど前だし、それから全く連絡は取っていない。上司から聞かなければ今日だって来なかったに違いないのだ。聞いたとしても、何で来てしまったんだろう。
「隣、いいですか」
 静かに腰を下ろした彼女は、静かに話し出した。
「半年前に、病名は長ったらしいんで忘れましたけど、所謂不治の病にかかったそうです。それでも本人はいつも通り笑ってたみたいで。私もここ数年兄と連絡は取ってなかったので、死んだと連絡を貰ってびっくりしました。行ってみれば縁も所縁もない僻地で、何を思ってあんな遠いところに入院したんだか。最後の方は車椅子生活だったみたいで、病院の中庭で一人本を読むのが楽しみだったらしいです。その日も、気づいたらそこで死んでたんですって。誰にも看取られず、静かに一人死んだそうですよ」
 彼に似合いの、と云ったら失礼か。だが容易に想像できた。
「私、喧嘩して家を飛び出したようなもので。あれが最後かと思うとね。今更どうにもならないんですけど。でも、あの日家を出た朝も今も、兄は笑っていたから」
 私も喧嘩別れだった。と云っても私が一方的に喚き立てていたような気がする。何が原因かは忘れた。でももうこの人と一緒には行けないと思った。あの時の激しい感情は、いったい何だったのだろうか。
「そう、これを、貴女に預かっていました」
 そう云って彼女が取り出したのは一つの鍵だった。
「確かにお渡ししました」
 手の中で、あの日の鍵がきらりと光る。
「そろそろ時間ですね」
 綺麗に骨になった彼を見ても、やっぱり、悲しくはなかった。
 あぁ小さくなったなと思った。



 古い階段を二階へと上る。時代に取り残されたような雰囲気のアパートは、だが見た目によらず中々住み心地の良いところだった。六畳二間に台所風呂にトイレ。少々駅からは遠いものの、自転車でも使えば不便は感じない。住人同士も仲が良かったし、ここでの生活は楽しかったことばかりだ。
 私は馴染みのドアに彼の妹から貰った鍵を差し込んだ。中はさすがに埃っぽい。窓と言う窓を開け放ち、玄関も開け放した。涼しい風が通り抜け、畳の香りが漂う。と、机の上から紙が落ちた。拾い上げると私宛のメモで、彼の綺麗な文字で『申し訳ないけれど、後始末を宜しく』と書かれていた。まるでこうなることを予想していたかのような文章に腹が立つけれど、それにしてはあまりに質素な文に力が抜ける。脱力した私を風が撫で、それにのって鈴の音が聞こえた。顔を上げると、開け放した玄関から黒猫が一匹、顔をのぞかせている。彼だか彼女だかその猫は一瞬動きを止めたものの、慣れた様子で室内に入ると窓際に置いてあった座布団の上に丸まった。首輪もしているしどこかの飼い猫だろうか。自分が居た時には居なかったから、もし彼が飼ったのだとしたらここ一年だろう。
 ごめんね。あの人は死んでしまったのよ。
 手を伸ばすと猫は大人しく撫でられた。
「お、姉ちゃん久しぶりじゃん! って、あー! ニッグ! 戻ってたのか!」
 玄関からの叫び声に私があわてて振り返ると、懐かしい顔が立っていた。赤髪のその少年は見た目によらず成人しており、近所の交番ではブラックリストに載るほど有名な童顔の男だった。あの頃のように勝手に部屋に上がると、黒猫を抱き上げて頬擦りする。
 猫の飼い主かと尋ねると、彼は首を横に振った。
「あんたがいなくなった少し後くらいかな、急にやってきてさ。大家さん説得して皆で飼ってたんだ。ここの兄ちゃんが金出して避妊もしてな。兄ちゃんがいなくなった半年くらい前から姿が見えなくなってたんだけど、やっぱり一番懐いてたからなぁ。兄ちゃん戻ったのか?」
 私たちが喧嘩別れしたことを、彼は知っているだろう。それでもこうやって話してくれることにあの日々は無駄じゃなかったと少し、嬉しく思う。
「そっか……死んじまったのか」
 事実を告げると彼は落ち込んだようにそう呟いた。
「猫みたいだな。ほら、猫って死ぬとき姿を消すっていうじゃんか」
 ホントかどうかは知らねぇけど。彼は久しぶりに会う黒猫と遊びながら云った。
 猫のよう。
 彼にとってはそうかもしれない。もうあの人は骨になって石の下だ。でも私には違う。彼は猫になり損ねた。私の前に戻ってきてしまったのだから。
「ここ、どうするんだ?」
 聞けば一年半分の家賃は払っているのだという。後半年。随分と払ったものだが、私がここにくることを見越してとすれば。腹が立つ。
 部屋を漁れば、あの日置いていった自分のものが出るわ出るわ。これらは引き取るとして、残りの物は欲しいものがあれば持っていってとあの日から変わらぬアパートの住人にあげた。そうこうしているうちに大家さんが来て、残り半年の家賃の行方でもめた末に黒猫も交えて宴会をすることでまとまった。余った分はもちろん修繕費だ。



 羨ましがりなさい。
 貴方、こういう馬鹿騒ぎを眺めるの好きだったでしょう。
 貴方を置いて、あの面子で、貴方のお金で、今物凄く楽しんでるわ。ご馳走様。



「ジンの、バカぁああぁぁぁぁぁっ!!!!」
 黒猫がにゃぁと鳴いた。



主人公:ペレグリー、上司:マーグリス、妹:シオン、隣の住人:ちび様
でした。ジンはこれっぽっちも出てないけれどもジンペレと言い張るぞ!

おかしいな、最後は黒猫が化けるはずだったのにな。
そんでもう少し続くはずだったのにな。無理でしたな。

猫の名前は住人が好き勝手に呼んでいるという設定だったので、ちび様はニグレドからとってニッグとしたんですが(黒猫だから)、よく考えたらH×Hでのゴンのお父さんと同じ事してると書き終わってから気付きました。見逃していただければ幸いです。