隙間テープ




 部屋には自分たち二人を除いて他になく、アレンは説明の出来ない緊張感をもってジンの向かいにある椅子に腰掛けた。ジンはアレンが部屋に入ってきたとき一度会釈した後、手元の本に視線を落としている。ぼんやりとその様子を眺めながら、自分は一体何をしに来たのだったかと考えた。
「お茶、淹れましょうか」
「あ、ありがとうございます」
 目的は思い出したもののそれを簡単に言い出せる度胸が自分にある訳もなく、ただ目の前で満たされていく湯飲みに視線を奪われている。厚めに作られた湯飲みはそっと持てば充分な温もりを掌に返し、アレンの緊張を少し解した。それを一口啜って一息つき、アレンは色々考えて泥沼にはまる前に声を出す事にした。
「不躾で失礼で不愉快な質問である事を承知でお聞きしたい事があります」
「はい、何でしょう」
「ジンさんにとって、あの紛争はどういうものだったんですか」
 本から顔を上げたジンを見たアレンは、次に彼が言葉を発するまでのほんの僅かな、時間としてゼロコンマ何秒を永遠に感じた。それほどアレンにとっては重大な質問であったのに、答えはすぐに返ってきて声は至って穏やかだった。
「言葉にはまだ出来ませんが、重大な事件であったことは確かですね」
「あの紛争に、思う事はないんですか」
「辛い出来事でした」
 ……そうじゃなくて。
 Jr.は仲間が傷つき倒れていく様を目の当たりにした。モモだってミズラヒ博士の真実に多分近付いたけれど、それでもまた父親は死んだ。主任、シオンは、知りたかった真実を目指して残酷な現実に傷付いた。あの紛争に関わっていた人は須く揺れ動いたのに、この人だけ微動だにしていない。知られたくない事実をシオンに知られる度、その都度彼は確かに悲しそうな苦しそうな顔をしたけれど、それはあくまでもシオンに対する感情であって、恋人であったらしいペレグリーと対面したときもなおこの人は微動だにしなかった。彼は、あそこが現実でなかったとわかっていたのかもしれないけれど、それにしたって彼自身の感情は僅かたりとも揺れ動かなかった。中では動いていたのかもしれないけれど、それは少したりとも外に出なかった。
「憎いと、思った事はないんですか」
 ジンが傷付いてないとは云わない。そんな事はありえない。配信された映像しか見たことのないアレンでも、その後暫く夜は眠れなくなった。あの時、仮想空間とはいえその映像が目の前広がっていた。子どもの頃に見た惨状の中に自分が居るのが信じられなくて、武器を持つ手が震えた。それは、自分が非戦闘員だからというだけではない筈だ。
「悲しんだり、怒ったりしないんですか」
 ジギーだって因縁があるらしいヴォイジャーを目の前にすれば逆上する。何でこの人だけいつもと変わらないのか。
「何で貴方は」
 平気な訳はない。だからそれに続く筈だった言葉は口から出る前に砕けて散った。今更ながらやはり聞くべきじゃなかったと思った。自分が聞いてだから何になる。答えを貰って一体どうするつもりだというのだろう。
 それでも一度発せられた言葉は取り下げが出来ない。答えはすぐに返ってきたのだけれど、その二秒は永遠にも等しかった。
「病院で目を覚まして、真っ先にシオンのことを思いました。そのすぐ後に両親の事を。助けられなかった悔しさと失ってしまった悲しみと傷つけてしまった苦しさと、様々な感情が溢れて、気付けばまたベッドの上でした。怒る前に悲しかったし、憎む前に苦しかった。だから逃げた。シオンが面会謝絶なのをいいことに、私はその間暫く呆けていました。生温い空間の中にずっと居て、何を云われても何を聞かれても意味などわからずただニコニコ笑って。それは実に心地好かった。そうやって目を逸らしているうちに、シオンが回復したので私は現実に戻りました。今度は、怒る前に嬉しかったし憎む前に守らなければならなかった。優先すべきはシオンでした。私はそうやって今も、逃げているんですよ。だから、怒りとか、悲しさとか、憤りとか悔しさとか、そういったものは箱に入れて蓋をして見ないようにしていました。そのうち、忘れました」
 いつも通りの柔らかい声が、部屋を一杯に満たしていく。暖かい、陽だまりのような声が、内容と全く吊り合っていない。
「それに……怒りをぶちまける場所も憎しみをぶつける相手も、私には居なかった」
 最後に呟かれた言葉だけに、アレンは僅かな感情を見た。居た堪れずに逸らしかけていた視線を急いで戻すと、ジンの顔から笑みが消えていた。
「ジンさんには、主任しか居なかったんですね」
「私にはあの子しか居なかった。あの子しか残らなかった。あの時はあの子にも私しか居なかった。でも今は違う。あの子はもう一人で立てるし、あの子はもう他にも誰かが居るのにね、それでも私にはあの子しか居ないんですよ。可哀想にね、こんな兄をあの子は背負わなければならないなんて」
 やはりこの人も傷付いていた。ただ彼には幸か不幸か妹一人が残されて、彼は妹のためにも正気で居なければならなかった。妹を守るために、誰も拭ってはくれない涙を流している時間などなかった。痛みに怯んで動きを鈍らせてはいけなかった。彼はシオンが居たから立ち上がれたのと同時に、シオンが居たせいで未だ生々しい傷から血を流し続けている。
「……可哀想かどうかは、主任が決めることです」
 それでもシオンが今ここに居るのはジンのおかげであることは確かだ。自分がシオンに出会えたのは、目の前の彼がシオンを守っていたからだ。
「確かに、そうですね」
 そうやって再び笑みを浮かべたこの人に、アレンは感謝した。
「主任は、迷惑だなんて思ってませんよ。きっと大丈夫です」
「ありがとう。アレン君のような素敵な青年に想ってもらえて、あの子は幸せですね」
「! ぼ、僕は、別にっ」
「君の声なら、シオンに届くかもしれません。今は少し周りが見えていないけれど、いつかきっと君の声に気付くでしょう」
「ジンさんの声は?」
「……ずいぶん前から、私の言葉はあの子に届かないようになってしまっているんです。何を云っても全部弾かれてしまう。私は私以上の言葉を持たないから、それで届かないならもう、出来ることは何一つない」
 そう云ってジンは悲しそうに笑う。漸く見せた感情は、やはりシオン絡みだったけれど、それでもこの人も人間なんだと頭のどこかで疑っていた事に答えが見えた気がした。
「大丈夫、届いてます」
「だといいですね」
「絶対に届いてます」
 だってシオンは苦しんでる。言動の端々に見せる悲しさや苦しさはまだ迷っているからだ。自分たちの声が聞こえなければ迷うことなんてないのだ。だから届いている。そしてその事に彼女が気付いたら、その時きっと、ジンにだってわかるはずだ。彼の言葉は、ちゃんと妹に届いていたのだとわかるはずだ。
「お茶を、淹れなおしましょうか」
 その言葉で、手の中の湯飲みを思い出した。ほのかな温もりを伝えてはいるものの、中はすっかり冷めている。アレンは慌ててそれを飲み干し、少し咽つつ湯飲みをジンに渡した。
「す、すみません」
「いいえ」
 ゆったりとした手つきで急須を傾ける。再び満たされた湯のみがアレンの手に渡る寸前、ジンはそっと笑顔で礼を言った。
「ありがとうございました」
「え?」
「少し、すっきりしました。やはり、人に聞いてもらうと違うものですね」
「あぁ……」
「当時は自分の事なんて考えもしなかった。五体満足というだけで充分でした。自分の事が良くわかっていなかった。シオンがあのリストに乗っていた事もあって、ただもうこれからを考えるだけで手一杯でした。気付いたときにはどうしようもなかった。言葉を呑む事に慣れて、平常を装うことに慣れて、ガスの抜き方ももうわかっていた」
「僕なんか弱音吐きまくりですけどね」
 そう云うジンの顔が穏やかだったので、アレンは少し大げさに情けなさを強調した。
「自分の事は自分で出来ると、思っていたかったんでしょうね。でもこんな歳になれば少しは考え方も変わるのかな」
「年寄りくさいですよ。まだ三十でしょジンさん」
「三十六ですよ。アレン君も、十年後きっとわかりますよ」
「そうかなぁ……」
 あまりわかりたいとは思わない。その老成された性格もきっとあの日が原因なのだろうけれど、でも今のジンには良く似合っていた。
「次は美味しい和菓子を用意しますよ。これに懲りずにまた相手をして頂けるとと嬉しいですね」
「懲りるだなんて! こっちこそよろしくお願いします」
 まずは外堀。なんて。
「外堀…………ね」
「えっ?」
「いいえ、何でも?」
 十年たってもこの人には勝てないだろうと思った。



ミルチアが終わって箱舟かミクタム前なので本当はこんなにゆったりお茶してる雰囲気じゃないんですが、そこはそれ気にせず流して頂いて。
久しぶりの自動書記でよく指が動きました。よく動いたので話がちゃんとなってるのか不安であります。書いたの深夜だし。朝読み直したときすんなり受け入れられるのか悶えるのかはてさて。