バターが溶けるそのあいだ




 休日の午後。
 外は実にいい天気だった。日差しは柔らかく降り注ぎ、薄手の上着を羽織って散歩なんていう計画をこの星に住む人の半分以上は考えただろう。車に乗って遠出というより、自分の足で裏山まで、そんな気分だ。だが敢えてジンは家で本を読んでいた。
 障子も全部開け放った部屋で、座椅子に座り頁を捲る。柔らかな日差しはそのまま柔らかい光源になる。少し風が吹けば羽毛が肌を撫でるようで、その心地好さといったら。昼寝がしたい。
 その誘惑に乗りかけたとき、遠くで畳の擦れる音がした。自分のほかには妹しかいない。どうかしたのかと声をかけようと視線を本からずらした瞬間、腹部に衝撃を受けた。
「っっ!!」
 漏らしてはいけないものが噴出しそうだ。ジンはぐっとこらえて喉奥までこみ上がってきたもの達を何とか飲み干した。若干の脂汗が頬を伝う。
「……どうかしましたか?」
 本を持ったまま腹部にしがみついたままの妹を窺う。
「シオン? シオーン。シオンちゃーん」
 本の続きは読めそうにない。しおりを挟んで閉じテーブルの上に置いた。空いた手を彼女の頭に乗せる。
「ほら、云って貰わないと。わかりませんよ」
 埒が明かないので彼女を抱き起こそうかと思った。そこで漸くシオンに動きがあった。ジンの背に回した手に力を込め、ぐりぐり顔をこすり付ける。
「兄さんなんか大っ嫌い!!」
 退院してもシオンは不安定だった。雨の日は大体体調も崩して、晴れていてもたまにこうやって癇癪を起こす。こうなった時、ジンに出来る対処法は一つ。何もしない事だ。否定は勿論肯定もしない。否定すれば嘘吐きと云われ、肯定すれば更に罵られる。頭を撫でようとしても抱き締めようとしても全部が逆効果。少ない語彙で叫び続けるシオンから、まるで降参するポーズのように両手を離しジンは罵倒を大人しく聞いていた。
(可哀想にね)
 その後頭部を上から見下ろしながら、いつもジンは思う。こんな事、彼女はしたくないだろうに。嫌いだと叫ぶ割には背にまわした腕は解けないし、最後にはいつもしゃくりあげながら大好きだと涙声で繰り返すのだ。そういうやり方でしか彼女は自分の中にあるものを消化できない。
 二人で家に戻っても引き続き医者にはかかっている。こういった症状は伝えたし先方も理解して治療をしている。だが一向に治まる気配は無い。
 罵倒の台詞も何回も聞けば慣れるもので、最初は自分もつられて落ち込みもしたが、今では割と平常心でいられる。そしてぼんやりと事が済むまで眼下の妹を眺めている。平常心でいられるとは云っても完全に平気な訳ではない。殴られ続けて何となく感覚が麻痺してきた、ような感じだろうか。他人事に思う事で大丈夫だと信じ込む、それに本人は気付いている。
(そういえばジャガイモを貰ったんだった)
 妹をしっかり視界の中心に据えて認識しつつも意識はいつも余所へ向いている。それがある種の逃避だとはまだ気付いていない。
(肉じゃが、マッシュポテト、シチュー、カレー……フライドポテト?)
 上げていた両手を疲れたから畳に下ろす。そのふとした動作にシオンがしがみつく力を強めた。別に逃げやしないのにと、少し寂しくなる。
 片手で足りるだけの手持ちジャガイモ料理が脳内から消えたので、他の調理法はないかと唯一動かせる目を部屋の隅々に向ける。そんなところを見たって料理は書いていないが、他にする事も無い。
(あぁ、蒸かしたらいいのか)
 そう思い付いたとき、身体を締め付ける圧力が無くなった。下を見れば真っ赤に目を腫らした妹が、それでも溢れる涙を拭いもせずジンを見上げている。
「ね、兄さん。大好きだからね? 大好きだよ?」
 違う、嘘だよと、妹は言わない。全部前のは無かった事にして、だから好きだよと、妹は絶対云わない。
 その喉元、首が視界に入った。



 例えば、晩御飯はカレーがいいなとリクエストするような気軽さで。
 夕焼けに染まった空を見ながら、夕焼けだなと思うような何気無い気持ちで。



「兄さん?」
 ほんの一瞬を敏感に感じ取ったシオンをごまかすように、ジンはシオンの両脇に手を入れて立ち上がると同時に抱き上げた。
「私もですよ」
 安心させるように額をあわせ、涙を拭った頬に自分の頬をつける。
「大好き。大好きよ兄さん」
「兄さんも」
 その後の一言をジンが云えない事に、妹も本人も気付いていない。
「さて、少しおなかも減ってきた事だし、じゃがバター食べる?」
「たべる!」
 不確かな事にはまだ蓋をしておきたい。二人は先を急いで現実に戻る。シオンを片手で抱いたまま器用にジャガイモを蒸かすと、それを一つずつ皿に載せる。居間のテーブルに皿を置いて、バターを隣に置く。その前にシオンを抱えたまま座ると、彼女は膝の上でテーブルにあわせて座る位置をずらした。
「食べていい?」
「どうぞ」
 シオンがバターを取ってジャガイモに乗せる。これが溶けたらそれが今日の仕舞い。

 だからその僅かな間、あなたの細い首を締め上げる幻想を許して。



これでもこの兄妹が好きだと言い張ってみる。