猫も雪の中
「雪だ!」
俺は馬鹿みたいにでかい声に起こされた。なんか寒くてもぞもぞと毛布をかき集めながらそいつのほうを見ると、そりゃ寒いはずだそいつは窓を開け放っていた。
「馬鹿ヤロウ窓を閉めろ」
別に戦場じゃないから敵の殺気に用心しなければならない訳でなくリラックスしきった身体は威嚇用の声を用意出来なかった。眠い。寝たい。第一窓の外はまだ暗いじゃないか。確かに連なる屋根に接する空はすこーし明るいが要はまだ夜明け前だ。この馬鹿猫め。
「雪だ! デスマスク、雪だ!」
「騒ぐなよ。たかが雪だろう」
「何を言う。俺は雪を見るのは初めてだ」
大きくした眼をそのままに、アイオリアは振り返ってそう言い放った。
ほうほうさよですか。左様ですか。左様で御座いますか。ところでその大きな眼はやめないか。可愛いから。
「お前だって見たこと無いだろう」
「馬鹿にするな。ミラノにだって雪は降る」
暖房が効いていたから寝るときはシャツ一枚だったアイオリア。そのままの姿で再び窓の外に顔を出している。寒くないんだろうかこの筋肉馬鹿。暖房は既に切れているはずだしそうでなくても開け放った窓の外は雪なのだ。少なくともベッドの上で丸まっている俺は寒い。雪だ雪だと馬鹿のように繰り返す声にそっと視線を向けると、見えないはずの茶色い耳と尻尾が見えた。楽しそうにゆれている。
「後で買い物とか、散歩に行くか?」
「…………融けてしまわないか」
その耳と尻尾がしょぼんと下に垂れ下がる。
「あーあーとけねーとけねぇ。朝飯食った後でも全然融けてねぇから安心しろ」
「そうか」
再び勢い良く立ち上がる耳と尻尾。
「だから窓を閉めろ。俺は朝食まで寝る」
アイオリアは大人しく窓を閉めて、隣のベッドに潜り込んだ。俺はそれを見てから瞼を閉じる。夜明けまで後数十分しかないかもしれない。それでもこの温もりは捨て難い。さて寝ようとしていると、もぞもぞと動く音が聞こえてくる。そわそわと窓の外に向けられる頭。忙しなくうたれる寝返り。お前が寝れねぇのはわかったから大人しくしてろ。
「…………デスマスク」
「なんだよ」
「……」
「外が気になるのはわかったから大人しくしててくれ。俺は眠いんだ」
「良くわかったな!」
わからないはずが無い。顔に書かれてる以前に全体からそういうオーラが出てんだよ。
俺はもう返事をする気も失せて、毛布を頭から被った。アイオリアはまた頭をずりずり枕の上で動かして、ベッドから降りると俺のほうへ近寄ってきた。あーもう、煩いなこいつは。俺は手を少しだけ毛布から出して、指で近づくようにアイオリアに示す。気だるげに毛布から顔を出した俺は、近づいてきた奴の頭を捕らえてキスをした。黙らせるにはこれに限る。ベッドに手をついて逃れようとするアイオリアだが、そう簡単に俺が放す筈が無い。しばらく抵抗していたものの、諦めたのか気力がなくなったのか、突っ張っていたその手を俺の胸に置いた。
冬場に寒さで心臓を止めるジジィ達の気持ちが良くわかった。
「冷てぇんだよ……」
俺が目の前でそう睨みつけても、奴の心は此処にあらず。視線はテーブルの上の食事と窓の外を行ったり来たりしている。
雪は朝日を浴びて白く光っている。既に近所のガキ共が雪合戦をしたり雪だるまを作っていて、そこが道の往来などとは気にも留めない様子だ。それた球が通行人にしょっちゅう当たっている。
俺は食後のコーヒーもろくに飲ませてもらえずに表へ引きずり出された。
「お前さ、一人で行ってこねぇ?」
ギリギリで掴んだマフラーを首に巻いて俺が言う。アイオリアはハイネックのセーターにコートを羽織っただけだ。手袋もしてねぇ。俺もしてねぇが。俺は出来なかったんだが。
「つまらん」
奴はそう言い切り、サクサクと鳴る足元に眼を輝かせている。雪をすくってはその軽さに驚き冷たさに驚き融けて驚き。呆れを通り越してホホエマシクなる様な光景である。俺もやきがまわった。
外へ出たところで俺達には特にする事が無かった。聖域から言われていた用事は昨日までに終わってしまったし、土産なんか元より買うつもりはないし。帰るのは明日でいいので、俺は適当に良さそうなバールでも見つけてと思っていたのだが、このままだとどこかの広場で雪合戦でもしなければならないはめになりそうだ。困った。せめて手袋が欲しい。
街を、アイオリアの行くように歩いていく。葉に乗った雪を眺めたり花に被った雪を払ったり塀に積もった雪を叩いたりと、こいつが雪に飽きる事はなさそうだ。俺は途中でコーヒーを買って、次第に失われる温度を切なく思いながらそれを見ていた。空は盛大に晴れ渡っている。焦げ茶の表面には何のかげりも無い。草臥れた様な平和ボケの見慣れたくない見知った顔が映るだけだ。
ふ、と行先が急に広がった。どうやら恐れていた広場についてしまったらしい。既にそこは子ども達の遊び場と化していて、大人しく座っていられそうなベンチは無かった。仕方がないので広場中央にある噴水へと続く階段に腰掛ける。前に誰かが座っていたのだろう、雪が払われていた。冷たいが濡れないだけましだ。
目の前では子ども達が雪合戦を繰り広げている。壁とかそういうものは無く、ただ丸めた雪を投げつけるだけの他愛無い遊び。それをアイオリアは羨ましそうに眺めていた。手の中にあるカップにコーヒーは無く、それを灰皿代わりに煙草を吸おうと思ったらライターを忘れた。まぁ、吸おうと思ったところでこいつに止められるか。と諦めて手に持ったパッケージをポケットに戻したそのとき。
「…………」
俯いた右の頬に冷たい衝撃があった。
忙しない足音が聞こえて、子どもが目の前に立つ。慌てた表情で一生懸命謝っていた。今にも泣きそうに謝るものだから、俺は大丈夫大丈夫と手を振ってやる。
ガキは安心したかのように笑うともう一度深く頭を下げて、踵を返しかけて止まった。アイオリアの方をじっと見ている。アイオリアもじっと見返している。しばらく見詰め合った後、子どもはアイオリアの手を掴んで自分と向こう側にいる子ども達を指で指した。遊ぼうと、そういうことか。
困ったように、でもそれは決して不快な感じではなく、むしろ飛び出したいのだけれどその綱を放してくれないかと頼む犬のようなそんな困り顔でアイオリアは俺を見る。まぁこいつは飛び出したとしても戻ってくるだろうから、俺は綱を放すことにした。
ひらひらと手を振ってやると、本当に、見事なまでに顔を輝かせて、子どもと共に走っていった。でかい身体は格好の標的だ。あっという間にアイオリア対子どもという関係になる。その笑い声を聞きながら、のどかだなぁと空を見上げる俺。うん、なんかおかしい。どこか間違っている、俺。
「あー、煙草吸いてぇ……」
こういうときはすっぱすっぱと煙草を吸うのがいいのだ。有害な煙をおもっくそ肺に吸い込んで有害な物質を血液中に取り込んで脳の隅々まで行き渡らせるのがいいのだ。
「せーのっ!」
そんな穏やかな俺の顔に、誰かのつってもアイオリアのだが、合図と共に雪がぶつけられた。ぼろぼろ、ぱらぱら、雪が落ちていく。肌に張り付いた雪は溶けて水となりマフラーに染み込んでいく。
「……こんの、ガキ共がー!!」
楽しそうな悲鳴が広場に響く。
声が上がった方を見た大人達は笑っている。
何とまぁ、のどかな事だ。
「ほら、埋めちまえ埋めちまえ!」
アイオリアを押さえ込んだ俺の仕草に、ガキ共が雪をかぶせていく。
と思えば今度は俺が俺以外その他に追いかけられたりもする。
兎にも角にも賑やかな事である。
「…………疲れた」
夕暮れの空の下、俺達はホテルへの道を歩いていた。
子どもの相手というのは本気で疲れる。こっちは全力が出せないと言うのに向こうは容赦なく全力でぶつかって来るからだ。もうホテルでこいつをヤる気も起きない。熱いシャワーを浴びてワインでも飲んでぐっすり寝てしまいたい。こいつを湯たんぽにしよう。そうしよう。
「寒ぃ」
服は雪で濡れている。マフラーも最後に作った雪だるま用にと取られてしまった。ブランド物じゃなくて良かった。安物で良かった。
「楽しかったぞ!」
アイオリアが本当に心底これ以上ないってくらいに嬉しそうな顔をするので、色々言いたい事があったが言わない事にした。どうでもいいと思ってしまうなんてやっぱり俺は平和ボケでどうかしてしまったに違いない。苦笑いしか出来ないなんて。情が移ったにも程がある。
「そーか、良かったな」
そう言ってわしゃわしゃと頭を撫でる。アイオリアはやめろよと言ったが、避けようとはしなかった。可愛いやつめ。
「明日は、昼頃に此処を発つのか?」
「そうだな。そのくらいに出れば充分間に合うだろう」
「雪、持って行けないだろうか」
「融けるよ」
フロントで鍵を貰いエレベーターに乗る。コートのボタンを外そうと思ったが、ホテルの中もそこそこ寒いので後にすることにした。
「付き合ってもらって悪かったな、デスマスク」
「そこは謝るところじゃねぇ。礼を言うところだ」
部屋は暖かかった。漸くコートを脱いで深く息を吐く。あー、寒かった。
俺はベッドに座り、ずっと吸えなかった煙草に火をつけた。煙を吐き出す俺に向かい合うように隣のベッドに座ったアイオリアは、特に何をする事もない様で、俺を見ていた。
「デス」
「あぁ?」
不意に立ち上がったアイオリアが俺の目の前にきた。俺が奴を見上げると、がしっと頭を掴まれる。おぉ!? と思う間にキスされて、俺はとりあえず煙草を遠ざけた。
こいつから来るのはとても珍しい事なので、されるがままに口を開いてやる。
「…………ありがとう、デス」
「どういたしまして」
そういえば昔から猫とか犬とか動物には甘かった気がしますよオレサマ。
あーあーはいはいもうわかりました。
可愛いやつめ!
- [05/12/19]
- 戻る