降水確率100%




 手負いの獣。

 なんて言葉は違う気もするが、とりあえず俺の目の前にいるのは一匹の獣だった。殺気を隠そうともせず獲物の喉に喰らいつくその時を狙ってただ俺を睨みつける。だが獣は殺しを目標としない。自分の腹を満たす為か縄張りを守る為に力を振るう。その点ではこいつは獣にも劣った。
「満足かよ、サガ」
 可哀想にと俺がのばした手ははじかれた。深く吐き出される呼気には濃い負の気が混じっている。赤く染まった眼が憎憎しげに俺を見る。あいつはこんな眼をしなかったなと場違いな思いを抱いた。
 はて、一体こいつの道はどこから狂ってしまったんだろうかと考えて、すぐに止めた。原因に思い当たる節はあるがあったからどうなるものでもないし、もっと前、生まれたときから狂ってたんだと思うことにした。そうしたら楽だろう。誰も彼も悪くないなら楽だろう。
 あえて近場で言うなら、俺がこいつの手を取ったときだろうか。
「悪かったな」
 お定まりの謝罪を口にしたってどうしようもない。云わないよりマシだというような善人でもないのだが、何故だか自然と口を付いて出た。

 猫を、飼っていたつもりだった。
 懐かない猫に餌をやり餌をやり餌をやり餌をやり、飼っていたつもりだった。
 ただの気紛れで、飼っていたつもりだった。
 どうせいつかそっぽを向いて去っていくとわかって、飼っていたつもりだった。
 人生、上手くは行かないものだ。

「ぐ、ぁっ!」
 床に背中を押し付けられて掴まれた肩の骨が軋む。天井へ届く視界の間にあいつの顔が映って、それはこっちを睨みつけている。
「……っ!」
 風を切るような音が喉で鳴る。後ろに無理やり捻じ込まれたそれは、今までよりも明らかに怒張していて、これが以前だったらもっと楽しめたのにとかずれた考えが浮かんだ。とりあえず声を出さずしがみ付かず、フローリングに爪を立てて一撃を何とか耐え切る。初めさえ堪えれば後は悲しいかな、今までの経験を総動員して何とかなる。本能で動くこいつにあわせて、その奥に散らばる欠片を一つ一つ集めていく。萎えた俺のに熱が篭れば、後はもうどうにでもなった。
 荒い息をついて無心に動くこいつは、でもまだ術に逆らっているようで、その歪がこういう形で現れたということだろうか。ただただ苦しそうに眉間に皺を寄せ、口から漏れるのは意味をなさない唸り声だけで。そこまでして踏ん張る理由は何だろうか。
 俺もお前も多分気付いている。これで終わりなんだ。俺は別にかまやしないが、こいつには悪い事をする。あの日暇つぶしにこいつのところに現れた事から、あの日サガじゃなくこいつの手を取った事まで。本当に悪い事をする。
 だがもし、こいつが歯をくいしばって俺の喉に噛み付こうとするのを抑えているなら。
 自身の全てでもってそれに抗い続けているなら。
 その理由がもし、万が一にも、俺なら。

「悪くねぇよ、アイオリア」



 獣の慟哭。零れ落ちた涙が一粒、舌の上に落ちた。