もういくつねると
目を開けた時に飛び込んで来たのは、今にもあふれそうな涙と赤い鼻だった。
「ははっ……ひでぇ、かお……」
喉の奥から声を絞り出すとそれは自分のものとは思えない掠れ声で、今から思うと果たして声になっていたのかも怪しい。でもそいつはしっかり俺の言葉を聞き取って、「ばか…」と言った。
すっごい好きな奴が半泣きになって自分に縋っている様子を見ても、正直言って「悪かった」とか「心配かけた」とか思えなくて、むしろ「あれから何日経ったんだろう」とか「入院費はいくらになってんだろう」とか「冷蔵庫のピーマンはもうダメになってるだろうな」とか、そういう考えの方がリアルだった。
涙を必死にこらえて、壬生は俺の手を握りしめていた。そこだけが妙に熱い。
「…君が、もしも……」とそこまで言って、壬生の目から涙がひとつ、零れた。
縋り付くような目線が愛おしくて、可愛いな、と思った。
思った通りに口にしたら、また「ばか…」と言われた。
反射的に右手が降り上がるがそれに勢いはなく、ふらふらと彷徨うように俺の頭にそっと降りてきて、くしゃりと頭を撫でた。それからまた「ばか…」と呟くと、今度こそ壬生は泣き出してしまった。
その様を見て、初めて、「あぁ、悪い事をした」と思った。
「というわけで、正直すまんかった」
まだ退院は許されていないが、俺は天賦の才にモノを言わせて鬼神的な回復力を見せた。おかげで2日経って傷はほぼ完全に塞がり、体調もすこぶる良くなっていた。一々説明してゆくのは面倒なので一気にコトを済ませようと、全員を部屋に呼んだ。何人か都合が付けられない者はいたが、主な面子は大体揃ってくれた。
白いベットの上で半身を折り曲げて、まず謝罪する。
そんな俺を見て、何人かは相好を崩し、何人かは泣きそうな顔をして、そして何人か(主に壬生と御門だ)はぎろりと睨んできた。
「一体何に対して謝罪をしているのですか?無様に切られた事ですか、それともこの忙しい時期を狙って無茶な招集をかけた事ですか?」
御門の冷淡な声に、美里やら小蒔が抗議の声を上げる前に、俺は笑って見せて「その両方」と言った。
「でも何よりも謝りたいのは、俺があの時内心、切られても良い、と思った事に対してだ」
笑いながらさらりと言った言葉に、場の空気が凍った。
それをあっさりと破ったのはやはり御門だった。
「ふん。楢崎道師の話を聞いて人並みにショックでも受けたというわけですか」
馬鹿馬鹿しい、とそのまま続きそうな言葉を、御門はそこで切った。眉が寄せられているのは軽蔑からでない事は重々承知している。
「ははっ、残念だけど正解」
ベットの背もたれに寄りかかる。立てかけた大きな枕に体が沈んで、心地いい。「これからはちょっとマジな話な」と断りを入れてから、俺は自分にまつわる諸々の事を話し始めた。
「自分が普通じゃない事は子どもの頃から知っていた。異形の者には付き纏われるわ、自分のものとは思えない記憶がフラッシュバックするわ、傷の直りは異様に早いし病気もしなけりゃ薬も効かない。
それに最近になってその断片的な記憶がどんどんはっきりとしたカタチになっていってだな、実を言うとここ数ヶ月で大分、自分自身の事が分かるようになってきてた。
それはずっと覚悟してた事だし、うっすらとそうじゃないかなーと思い続けてきた事だからまぁ、やっぱな、っていう気だったよ。楢崎爺の話も、驚きよりも納得の方が大きくてさ」
「でもさ、心のどこかでは望んでいたんだよ」
「いつか、普通になれるんじゃないかって」
「いつか、変な化け物にも襲われず、人並みに怪我して人並みに病気になって、人並みに…生活出来る日が来るんじゃないかって」
「でも」
「あー、無理なんだー。俺一生このままなんだーって、思ったらさ」
「さすがの俺様もちょっとヤケになっちまってさぁ。そんで丁度良くあの赤毛がやってきたわけだよ。いや〜タイミングが悪かったとはいえ、本当すまんかった。油断したわ、自分自身に油断した」
俺はからからと笑ったが、周りは笑わなかった。えぇい、笑わんか!俺が恥ずかしいだろう、俺が!
笑え!と叫ぼうとした瞬間、はははっと、渇いた笑いがした。声の方を見ると、壬生が笑っていた。
呆気にとられる俺たちを尻目に、壬生が笑い声を上げた。
「全く、馬鹿馬鹿しい胃にも程があるね」
声には全く感情がこもっていない。
「おい、壬生…」
村雨が咎めるような声を出すが、壬生はむしろ挑発的な表情を見せた。
「村雨さんも、そう思いますよね?」
「…俺は」
言いかけて、村雨が言葉を切った。逡巡の後、村雨もははっと笑った。
「そうだなぁ、確かに馬鹿げてらぁ」
「おい」
今度は如月が不快そうな声を出すが、今度は二人がかりで睨みつけられる。
「如月さんもそう思いますよね?」
「そう思うよな?」
「僕は…」
「 思 う よ な ? 」
村雨の脅迫に如月も折れた。この三人が笑っている様はどことなく異様で、今度は俺が本格的に吹き出した。
笑う俺たちを見て、なんとなく、他の連中も曖昧な笑みを浮かべ始めて、やがては正体不明な笑いの渦が巻き起こった。笑っている事そのものが楽しくて、ひたすら笑い続ける。ドクター岩山が怒号と共に突入してくるまで、笑いは止まらなかった。
「本当に馬鹿馬鹿しいよ」
翌日の朝、俺の所に来た壬生は開口一番にそう言った。
「本当に申し訳ありませんでした」
ベットの上に土下座する俺の頭を、やや力をこめてぽかん、と叩く。
「壬生君ひどい…」
「そういう冗談は嫌いだよ」
本気で睨みつけられて慌てて弁解する。
「いいや、土下座は本気だよ。本気で悪かったと思ってるよ、俺」
俺の弁解に、壬生はフフンと鼻を鳴らすと、身の回りに散らかっている雑誌やら何やらを整頓し始めた。
「あ、俺がやるって」
「いいよ」
こっちをちらりとも見ないで壬生が言う。
よく思うが、こいつって本当に世話焼きだよな。オカンじみているというかなんというか。
「緋勇の家の事は」
静かに片付けていた壬生が、急に口を開いた。
「話さなかったんだね。過去の話についても。君の出自についても」
雑誌が綺麗にまとめられ、文庫本もカバーが整えられ、一つにまとまった。
備え付けの小さな棚の中から衣服とタオルが取り出され、畳まれ分類され積まれていく。
「壬生には話したじゃん」
「みんなには」
「言わないよ。言っても混乱させるだけだし、知る必要はないだろう」
黒い髪に俺が手を伸ばすと、壬生はしなやかに身を翻し、それから逃げた。
所在ない手は宙を彷徨って、それからだらりとシーツの上に降りた。
「なんで」
表情を浮かべないまま、壬生が言った。
「なんで、僕には言ったの」
呆れた。
何回言えば良いんだよ。
「それはだね壬生君」
「僕の事が好き」
「わかってんじゃん」
「なのに」
すっと、壬生の目が細くなる。
「切られても良いって、思ったんだね」
空気を凍てつかせた後、壬生はまたくるりと翻して、片付けを始めた。
そのままなんとなく、何も言葉を交わさないまま、壬生に付き添われて俺は退院した。
結局、何も言葉を交わさないままに壬生は俺のアパートまで付いてきた。その異様な空気に内心慌てふためいていた俺は、鍵を取り出そうとして二回も取り落とし、鍵穴に鍵を突っ込むのに三回失敗した後、また鍵を取り落とした。
「君は何をやってるんだい」
呆れた声ながらも、壬生が漸く声を発した事に安堵して、俺はまた鍵を取り落とした。
「そう言えば壬生がここに来るのは初めてだったな」
「そうだね」
俺が持とうとしたのに、自然に壬生が持ってしまった荷物を机の脇に置きながら壬生が答えた。小さな声だったが、先ほどまでの不機嫌さはない。
「ちょっとそこ座ってて」
台所に行って、湯沸かし器の水を変える。棚を探ってみたが、お茶請けになりそうなものは残念ながらなかった。お湯が沸くのを待って、ミントティーを煎れた。好き嫌いが分かれる香りだが、なんとなく壬生は嫌わなさそうな気がした。
「面白い香りだね」
「嫌いか?」
「いや。悪くないね」
案の定、壬生は気に入ったようだった。何度か香りを確かめている。
爽やかな香りに包まれて、俺ももう少し、平静を取り戻した。
一服済んで、二人とも手持ち無沙汰になった。
窓の外はよく晴れていて、裸になった木も妙に清々しく見えた。
「壬生君」
「何」
「ごめんね」
壬生は答えなかった。
沈黙が降りる。
しばらく、お互い何も言わないでいたが、なんとなく壬生の方を見ると、
「み、壬生君!?」
泣いていた。
窓に寄りかかりながら、片膝を立て座っている。暖かい日差しの中でその目からはぽろぽろと涙がこぼれていた。
「壬生君」
そっと近づいて触れようとする。
「君が」
頬に触れるか触れないかの瞬間に、壬生が震える声で言った。咄嗟に手を引っ込めて、次の言葉を待つ。
「君が、謝る事はないんだ」
震える声のまま、壬生は俯いて膝に額をこすりつけた。
「でも」
「君は何も悪くない。君は何もしていない。君は…君は…だって君はただ産まれてきただけじゃないか…」
言葉の終わりはもう聞き取れないくらいに震えていて、人よりは広いはずの肩が妙に細く感じられた。
一人震えて泣く壬生に、俺はその名前を呼びかけた。
「紅葉」
出てきた声の驚く程の優しさに、改めて自分の壬生への気持ちを悟る。
「触っても、いい?」
無言のまま、壬生が浅く頷いた。
俺は壬生の頭にそっと手をやるとそのまま抱きしめた。
「ごめんな、辛い思い、させて」
ふるふると俺の腕の中で壬生が頭を振った。固く縮こまっている身体が愛おしくて溜まらない。俺は壬生の黒いしなやかな髪に頬擦りした。
「ね、聞いて。
俺さ、このままずーっと、異常のままなんだって思ってそれがすっごいその瞬間辛い事のように思えてあんな風に思ってさ。でもね、その御陰で色々な事を思い出したんだ」
広い壬生の背中を何度も撫でる。
首筋に鼻を埋めると、愛おしくて溜まらない、壬生の香りがした。
「俺、昔も…今の俺じゃなくて昔、別の俺だった時も壬生の事が好きだったって言ったよな?でもその時は勇気がなくて思うように近寄れなくて、力がなくて守りきれなかったって…」
今ははっきりと思い出せる。今と同じ黒い髪で、強く、優しく、孤独で、誰も寄せ付けようとしなかった、あいつを。
その孤独を取り除きたかった。でもその時の俺はどうすればいいのか全然分からなくて、いつも中途半端に近づいて、中途半端に別れた。
あいつがかつての仲間のために闘いにいく事を知っていながら、俺はあの村を離れる事は出来なくて。ただお守りにと数珠の一個を渡すくらいしか出来なかった。それが結局何の役にも立たない事を知っていながら、俺はあいつを、あいつだけを選ぶ事は出来なかった。
「今なら、分かるよ」
「その時、お前に感じていた気持ちも、お前が俺に感じてくれてた思いも、今ならよく分かるんだ。そしてその思いを背負って今ここに俺はいる。過去も、今も、そして未来も。
ずっとずっと続いてゆく思いを抱えて俺は生きている。
それはね」
「俺が俺だから、できることなんだ」
「だから、今はそれを誇りに思うよ」
壬生を抱える腕に力を込めようとした時、逆に強い力で俺は押し倒された。
背中に固い床が当たる。冬の日差しを遮って、壬生の顔が眼の中にいっぱいになる。
「そんなこと、いいんだ」
真っ赤に泣き腫らした目で、壬生が言った。
「僕の前世だか先祖だかがどうだったかなんてどうでもいいし今君が僕の事をどう思っていようがいまいがこれから先何がどうなろうとそんなことはどうでもいい」
俺を上から見下ろしながら、壬生の目にまた涙が溜まっていく様を俺は見ていた。
「君が…君が…」
くしゃり、と壬生の顔が崩れて、そして俺は壬生に強く強く強く抱きしめられた。
「君が、生きていて……本当に、良かった………」