その手




「龍麻クン…ッ」
傾く建物からずり落ちるマリアの白い手を、握る。
歪む手すりに掛けたもう一方の手で、二人分の体重を支える。ビキリ、と嫌な音がした。
「離しなさい!」
「いやだ!」
まさか自分を助けるとは思っていなかったのだろう。
驚愕するマリアの叫びは、到底、先ほどまで敵として退治していた人間に対するものとは思えない、言葉だった。
間髪入れない龍麻の返答に、マリアは再び驚きの表情を見せた。
「いやだ!」
「貴方は、貴方を待っている未来へ…光り溢れる未来へ向かっていくのよ」
だだっ子のように怒鳴り返した龍麻の必死の表情を見て、マリアが気を取り直したように優しく諭した。
「絶対、いやだ!」
いつもの飄々とした表情からは想像もつかないような、顔。紅潮した頬と、柄にもない大声に、マリアは戸惑った。
その顔が、急にくしゃりと歪められ、黒さが印象的な目に涙が溢れた。
「絶対、離さないかんな!」
「貴方も死んでしまうでしょ、離すのよ!」
龍麻が掴む手すりの根が、折れかけているのがマリアには見えた。もともと錆び付いていたのだろう。先週の職員会議で問題になっていた事を、マリアは今更ながら思い出した。
「貴方と私は、」
「住む世界が違うとか、そんなんどーでもいいよ!」
絶叫に近い叫びで、緋勇が言った。
「よくなんかないわ、貴方はね、光の中を歩むのよ。光の中を…未来へ、向かって」
ずきん、と、マリアの胸が痛む。
バシッ
マリアの、宙を泳いでいた方の手が、龍麻の手首を打った。
一瞬力が緩むのを、マリアは見逃さない。
手を、振り払う。
体が、浮遊感に、包まれる。

「その未来には、アンタも含まれてるんだよーーーー!!!」

龍麻の言葉に、マリアは、笑った。
手すりが揺らぎ、龍麻の身体までも宙に舞いそうになる。
そこに黒い影が横切り、龍麻の姿はそこから消えた。





「っく…ぅう、あ、ぁ………ッ!」
犬神の、タバコ臭い白衣にしがみつきながら龍麻は大声を上げて、泣いた。
180にもなる長身を折り曲げて、緋勇は犬神の腕に抱かれていた。
落ちそうになっていた所を、すんでのところで犬神によって救われたのだ。
一瞬獣の姿を龍麻に見せた犬神だったが、すぐさま人間の姿に戻り、泣きじゃくる龍麻を抱きかかえて安全な場所に移った。
「せん、っせ、せんせ…犬、せんせ…」
龍麻の手が白衣を引っ張る。
「おれ、おれ…も、…絶対、死なせないって…死なせないって…ッ」
そこから先は言葉にならず、龍麻は声を上げた。
脳裏に、赤い炎が浮ぶ。その先で微笑み立つ、少女。
脳裏に、鬼面が浮ぶ。五つの仮面、それに護られるようにして立つ男。
自分のものではない記憶が、脳裏を走る。
美しい金の髪をもつ少女、燃え盛る赤い髪の青年。青年を囲む人々。
「て、てんか…も、ひょ、ぉも、さよ…さよもぉ、ら、いかく…も、たい、ざ…も、ふうか、く、もぉ…」
泣きじゃくりながら、交錯する記憶に浮ぶ名前を呼ぶ。
「みんな、な、で…なんでぇッ!」
「いい加減、よせ」
犬神は突然腕を解いた。
どさりと、龍麻の身体が固い地面に落ちる。
「鬱陶しい」
しゃがみ込んだままの龍麻に、犬神は平素と変わらぬ声をかけた。
「立て」
「っく、ぅ…」
「お前を、待っている奴らがいる」
「お、っちゃ…」
犬神の言葉に、龍麻が顔を上げた。
「お前が、護るべき奴らがいる」
紫煙が、冬の風に流される。
「死んだ連中に謝るのは、その後だ」
しばし呆然と犬神を見上げた後、くしゃりと、龍麻はまた顔を歪め、笑った。
かくりと首を折って、地面にだらしなく垂らされた己の掌を見る。それは節高く、小さな傷が無数に刻まれた、血を吸った拳だった。
この掌が吸い取ってきた、数々の血を思い出す。しみ込んだ、沢山の命。
そしてこの掌が護る、消えた以上に沢山の、命。
「ん……」
のろのろとだが、しっかりとした足取りで龍麻は立ち上がると、犬神を見た。
「あんがと、な。犬のおっちゃん」
ぎこちなく、締まりのない笑顔は、遥か遠く、今はない歴史の街で見たものと同じだった。
見た目も雰囲気も。何もかも変わったというのに。
溢れる光だけは、変わらない。
「不思議なもんだ…」
未来へ向かって歩む、過酷な宿星を背負う少年の背中を、犬神は独白と共に見送った。



W先生攻撃。このお二人は最初は特に興味なかったのですが外法プレイしてから…もうなんというか、ねぇ。哀愁が…。
後半は蛇足のような氣もしないでもないけど…でも書きたかったんだ…犬のおっちゃん。
ちなみに外法で龍斗は犬先生を「犬のおっちゃん」呼ばわりの設定マイ。嫌そうにしながらも本気では怒らない杜人さんが好き。