夫婦-meoto-
ポストに覚えのない手紙がきた。
封筒の下側には記憶にない、旅行社と思しき会社名と連絡先が印刷されており、差出人の欄にも同じく知らない人の名前と連絡先が書かれていた。しかし宛先は違いなく僕のもので、僕に宛てた手紙である事は確かだった。
ここしばらく旅行なんか行っていないしなと、僕は首を傾げた。一昨年ヴァチカンにライセンスの書き替えに行って以来、旅行といえるような遠出は一切していない。
きっと、以前利用した旅行社、それも龍麻が手配したせいで僕は名前を聞くことがなかった旅行社からの、ダイレクトメールだろうと判断して、捨てた。
その晩、家電に電話がかかってきた。この電話はほぼ国際電話専用機になっている。
僕の携帯は残念ながら国際電話対応ではないから、龍麻と電話をするのは主にこれを使う事になる。
取れば案の定、龍麻だった。
「あ、壬生君?久しぶり。元気?」
ざらついたノイズのせいで、やや聞こえにくい声は相変わらず快活で、奇妙なくらい胸が締め付けられるのを僕は感じた。
「元気だよ。君は?お腹壊したりしてないかい?」
聞かなくても分かる事を、僕達は毎回確認し合う。
互いに何かあったら必ず感じ合う事を確信しながらも、挨拶代わりに相手を気遣う習慣を、僕は密かに気に入っていた。
「元気、いつも通り超元気」
笑い声を含んだ声は、耳に心地良い。
「ところで、何か?」
「あ、うん。いま俺台湾にいるんだけど、来ない?」
「へ?は?」
「いやだからさ、ちょっと遊びに来ない?台湾に」
「台湾に」
思わず僕は龍麻の言葉を繰り返した。
台湾と言えば日本が戦時中に統治して、その後国民軍が中華民国を建国したせいで帰属が問題になってる、最近特に工業部品や衣類の製造で著しく経済成長を遂げたあの南の島の事だよね?
「あさってから四日くらい暇?」
「え?あぁ……明日中に仕事を済ませられたら」
「頑張れる?」
「無理せず終わらせられる程度だけど」
「…良かった〜」
龍麻は心底安心したといった声を出した。嬉しそうな声に僕の気分も少し高揚するけど、戸惑いは拭い切れない。
「実はさ、もうチケット取っちゃったんだ」
「え」
「日が近いから、チケットは空港で引き渡しな」
「な、そんなもう?」
「関係書類がもう届いてるかもしれないけど」
聞いた瞬間、僕は慌てて雑古紙入れを漁って、例の覚えのない茶封筒を引っ張り出した。
「馬鹿!捨てるとこだったじゃないか!」
「あ、ごめん」
電話口に向かって怒鳴ると、龍麻がしゅんとした声を出した。
「良かった……危なかったよ、明日古紙回収の日だったんだよ?」
「え〜っと…た、台湾が壬生君に来てもらいたがってるんだよ!!」
苦し過ぎる言い訳だけど、龍麻の突拍子のなさにいちいち腹を立ててたらこっちの身が持たないのはもう重々承知してるから、これで許してあげる事にする。要は、こっちの都合さえ乱されなければいいのだ。
「じゃ、あさってこれに従って台湾に…行けばいいんだね?」
今だ実感が沸かない僕は、口を吃らせながら龍麻に聞いた。
「うん、あの、いきなりごめん」
「そう思うならもう少し早く連絡が欲しかったな」
言い慣れた台詞は、嫌味な響きなく漏れた。向こう側で、また龍麻がしゅんとなった気配がした。
「空港からは俺が案内するから、出口で待ってて」
「うん」
「あ、あとこっち結構あったかいから初夏くらいの服で来てね」
「了解」
「あとできたら割とかっちりした格好がいいかな。スーツじゃなくてもいいけど」
「セミフォーマルな感じで?」
「うん、そう。あんま金持ちそうな格好もアレだけど」
「金持ちじゃないから大丈夫だよ」
「確かに」
龍麻が笑った。
「じゃ、あさってに空港で」
「うん、それじゃ」
ガチャン、という音を聞きたくなくて、すぐに受話器を置いた。
一人の部屋が静かな事を久しぶりに実感して、僕は見たくもないテレビをつけた。
知らない人達の笑い声を聞きながら、僕は早速荷造りを始めた。
龍麻の言葉どおり、台湾は日本と比べるとひどく暖かかった。というよりも寧ろ、蒸し暑かった。
Tシャツに麻のジャケットという選択は間違ってなかったなと、日本に帰るまでは不要になりそうなコートを旅行鞄にしまった。
長い通路を歩いて、出口に辿り着く。意識を広げれば、龍麻の気配を感じる。
自動ドアをくぐって迷いなく視線を向けると、ポロシャツにスラックスの龍麻が、手を振って笑っていた。
いつもの旅行先の格好と比べると酷く身ぎれいで、なんとなくおかしな気分になった。僕が海外に来たというよりも、海外へ行っていた僕を龍麻が日本で向かえているような、そんな錯覚だ。
「疲れた?」
「ちっとも」
鞄を持とうとする龍麻の手を払いながら、僕は答えた。
「結構近いね」
「四時間程度で着くからな。東京から浜松まで鈍行で行くより近い」
龍麻は僕の手を引いて案内した。行った先にはタクシーが待ち構えていた。
「えらい豪勢だね」
驚く僕を後部座席に押し込みながら、龍麻は笑って「こっちは交通費が馬鹿安なの」と言った。
「地下鉄の初乗りが20元、日本円で80円です」
「安いね」
「タクシーもすっごい安いの。だから安心して」
タクシーが走り出した。窓から見える風景は日本のものとさして変わりがない。正直な話、異国に来ている実感はあまり沸かなかった。
「確かに、台湾と日本じゃ大した違いはもうないなぁ」
試しに素直な感想を口にしてみれば、龍麻は頷いて同意を示した。
「ひょっとしたら韓国よりも日本に近いかもね。ファッションも生活水準も大差ないし。まぁ、文化はやっぱ違うけどね」
高速道路を走る大型バスの車体に書かれた言葉が全て漢字というところだけが、ここは日本でないことを主張していた。タクシーの内装もひどく綺麗で、イタリアで乗ったタクシーの方がよっぽと汚かったと僕は回想していた。
ホテルは台北市の中心からは少し離れたところにあった。
「………」
ホテルの外装を見て、僕は絶句した。
思わず無言のまま龍麻を見たが、彼は素知らぬ風を装っている。だから僕は、あえて何も言わずに従った。
僕達の部屋は42階にあり、台北市内が一望できた。夜の街は見慣れた東京の夜景のように、きらきらと輝いていた。
僕は鞄からコートを取り出すとクローゼットに掛けた。パスポートとチケットと日本円はセイフティーボックスに入れて、財布の中に台湾ドルを入れる。
「お腹空いた?」
「……少し」
僕が身支度を整えるとすぐさま龍麻が僕に声をかけた。僕はちらりと龍麻を見て逡巡したけれど、話は後にしようと決めた。
「おいしいって有名なとこがあるんだ。一緒に行こう?」
にっこり笑って立ち上がる龍麻に、僕は素直に続いた。
ご飯は確かにおいしかった。小籠包も蒸し餃子も肉チマキも心空菜もカシューナッツと鶏肉の野菜炒めも青菜のスープも杏仁豆腐も、すごくおいしかった。
店を出たのはもう遅い時間だったけれど、街は活気に溢れていて、あちこちに屋台が店を出していた。日本ではなかなかお目にかかれない食材をタクシーの窓越しに見て、僕はようやく海外にいることを納得し始めた。
結局、旅の疲れは一切感じないまま、僕はホテルに帰り着いた。
「で、どういう事だい?」
にっこりと笑いながら、僕は尋問を開始した。
龍麻の笑顔が引き攣る。
ちなみに僕はゆったりとした革張りのソファに座り、夜景が見える大きな窓を左手にみつつ、向かいのソファに座っている龍麻に微笑みかけている。
僕の背後にはクイーンサイズのベッドが二つ、右手の奥には広々とした大理石のバスルームが広がっている。
付け加えると、目の前のサイドテーブルには龍麻がルームサービスとして頼んだジントニックとラムコーク置かれている。ジントニックは痛い程に冷やされており、添えられたライムの皮はへたれないでピンと張っている。
僕がホテルを見て絶句したのは、その外装がずば抜けて貧相だった訳でも汚かった訳でもない。寧ろ逆だ。
そう、逆。
そびえ立つ一対の塔は、西新宿や東京新都心周辺にでも建っていそうな近代的なデザインで、発達が目覚ましい台湾でも最先端の建物の一つである事が一目で分かった。
夜の闇の中、窓を光らせて天に向かう高層ビルの上方が、ホテルになっていたのだ。
周囲の客は皆こぎれいな格好をした人たちばかりで、かなりの富裕層が宿泊している事は明らかだった。龍麻が、「割とかっちりした格好がいいかな」と言った理由を、フロントに入る前から思い知らされた。
「どういうことだい?龍麻」
僕は青筋を浮かべそうになるところを必死の思いで抑えた。が、引き攣った笑みが否応なく怒りを龍麻に伝えた事だろう。
僕達は確かにやっている仕事が仕事な分、同年代よりも比較的稼いではいる方だと思う。家賃は御門さんの系列企業がオーナーなためかなり割り引いてもらっているし、男二人で道楽と言えば読書や裁縫に料理、時々映画を見に行ったり日帰りで温泉に行くくらい、龍麻は仕事が道楽だし、子どもが居る訳でもない。
だけど、だからといって、こんなホテルの気軽に泊まれる程僕らは裕福ではない。そしてフルコースばりの食事をして、タクシーで行き来するほどにも、裕福ではない。
明らかに。
予想可能範囲にあった僕の攻撃に、龍麻は笑顔を引き攣らせながらも冷静に対応した。否。冷静に対応しようと努めた。
「どういうこと、って?」
にっこり
「こんな高級ホテルに高級料理店、行き帰りの航空券を用意しておいて、君は一体何を企んでいるんだい?」
にっこり
「何も?企んでなんかいないけど」
「そう。なら今回の旅費は二人で割り勘って事でいいんだね?」
「いやいや、そんな事」
「い・い・ん・だ・よ・ね?」
スーーーーー……ッ
ハーーーーー……ッ
…………………………。
「嫌だ」
「却下」
「だぁあッ!」
龍麻は盛大にずっこけた。
どうでもいいけど、サイドテーブルには頼むから頭なんかぶつけないでくれよ。
君の頭が当たったら間違いなく粉砕する。勿論、テーブルが。
「だっていわれもなく君に奢られるわけにはいかないよ」
「いいんだよ!飛行機代もここのホテル代も俺のマイレージで払ってるんだし!」
「こないだマイルがたまったからって、JALの機内販売でグッチのキーホルダー買ってたのは僕の記憶違いかな?」
「そ、それは結局買わなかったもん!」
ふ。龍麻、嘘をつくなら言葉は一息に言うべきだね。
「嘘吐き」
「う、嘘じゃないやい!」
「でもこの前来た会員用の明細では半分くらいに減ってたけど?」
「う……」
「そういえば、いつもは家の鍵は郵便ポストに放り込んで行くのに、今回は管理人さんに預けて行ったよね?」
「うぅ……」
「そうそう、今回心配だから僕の鍵は行きがけに如月さんに預けてきたんだ。帰りは一緒なんだから、君が鍵開けてね?」
「……………………………きゅう」
へちょりと、龍麻がソファに潰れた。
さすがにちょっと言い過ぎたかな、と思うけど、僕なりにここは譲れないポイントなのだ。
龍麻は、「甘やかす」と「愛する」を混同させるきらいがある。
僕を甘やかしたい事はまぁ仕方ない。僕だって龍麻を甘やかしたいんだから。
でもそのせいで関係が対等じゃなくなる事は許し難いことだと僕は思う。僕は龍麻に養ってもらいたい訳でも、依存関係に陥りたい訳でもない。
もちろん、精神的には別だ。きっと……精神的には僕達は…相互依存している、と、思う。……この前如月さんにも村雨さんにも指摘されてしまったけど。
でも、いやだからこそ、金銭面やその他の面ではフィフティーの関係でいたいと僕は思っている。
確かに龍麻の方が資産はある(大半は人も住めない山だけど)。なんかんだで稼ぎもいいし、趣味に使うお金がほぼゼロな上に、家族はいないし親戚もそれぞれ自立しているから、必然的に余裕は僕よりもある。
「だけど僕は、君と同じ場所に立っていたいんだ」
僕の目線を避けるように、龍麻はそっと僕の後ろに回り込んだ。
「……知ってるもん」
「なら、こういうことはやめてくれ」
「……いや?」
「たまにはいいホテルに泊まるのも悪くないと思うし、高い御飯を食べる事もいいと思う。でもそれなら、僕にも半分出させて欲しいんだ」
「…………」
明らかに沈み込んでいる龍麻に、僕の心が少し痛む。
「……嬉しくなかった訳じゃ、ないよ?」
龍麻が、僕の首に腕を回してぎゅっと抱きしめてきた。
「ただ、もう少し別の方法をとって欲しいだけなんだ」
「………ごめんなさい」
本当に申し訳なさそうな声で、龍麻が言った。
僕は身を捩ると龍麻を見た。半泣きになっている龍麻を見ると、思わず笑ってしまった。
龍麻はそんな僕に腹を立てもせず、本当に切な気な顔で僕を見上げている。良かれと思って仕組んだ好意を、悪戯と勘違いされて叱られた子どもの顔だ。
「ね、何で?僕が怒るって分かってたんだろう?それなのに、どうして?」
溢れた声は自分でも驚く程に優しく、話しかけながら何故か僕が幸せな気持ちになっていた。
頭を撫でられながら、龍麻は眉を下げた。
「十一月」
「え?」
「俺と紅葉が」
「初めて、会った……」
流れるように当時の記憶が蘇った。冷たい夜、黒い瞳、黒い髪、明るい笑顔、力強い声。
僕の言葉に、龍麻が相好を崩した。
「ずっと俺が変な事なってたし、ようやく落ち着いてちょうどいいかと思ったらまた変な事に巻き込まれて、俺高校生に戻っちゃうし。それで、今年は漸くお祝いできるなって、思ったんだ」
照れくさそうに、そして嬉しそうに、龍麻が言う。
「六年……経ったんだね」
「ん、そう。六年」
長かったような、短かったような、すごく不思議な時間感覚だ。
事情を聞いて、僕は少し嬉しくなった。確かに方法は僕好みの方法ではなかったけど、龍麻が僕との出会いを本当に大切に思ってくれていた事が分かったから。
「………ありがとう」
あぁ、神様。悪魔でもいい。魂の一つや二つあげてもいいから、僕から彼だけは、奪わないで下さい。
結局、航空券をポイントで支払った事は本当だったらしいので、ホテル代その他を折半して、帰ったら僕が今度は龍麻のために何か用意する事で折り合いがついた。
「さてと。じゃ、そろそろ寝ようか。明日どっか行きたいところある?」
「そうだね…やっぱり故宮博物館は行きたいかな」
「了解。あとは?」
「他は余り知らないから、君のお薦めの場所でもあるんならそこに……」
「はいはーい……って壬生くーん」
にやりと、龍麻が笑った。
……嫌な笑い方だ。僕は密かに眉を顰めた。
「ベッドは二個あるのに、どーしてこっちに入ってくるのかな?」
……。
うるさいよ。
龍麻の寝転がるベッドに上がろうとしていた僕は、龍麻の言葉を聞いてくるりと進行方向を変えた。
けれど龍麻は僕の足首を引っ掴んで動きを止めた。この馬鹿力。
「別に来るなっていってる訳じゃないよ?ただ、理由が聞きたいだけ」
見なくても、ニヤニヤしている事が分かる。
いい加減、腹が立つ。
僕は龍麻の腕を振り切ろうとした。龍麻は思いのほかあっさりと脚を解放した。が、代わりに僕の身体に腕を回すと思い切り引き寄せた。
背中に、龍麻の胸板の感触がする。
頭がくらりと、揺れた気がした。
「ね?なんで」
声は思いのほか近い場所で響いた。
潜められた声は低く、僕の心臓はそれだけで跳ね上がる。
いい加減、腹が立つ。
龍麻にだけは絶対に逆らえない自分が嫌いだ。龍麻相手だと保てなくなる自分の理性が嫌いだ。龍麻を前にするとあっけなく崩壊する自分のプライドが嫌いだ。
体温を感じただけで、声を聞いただけで、泣きたくなる自分の弱さが、嫌いだ。
龍麻が無言で腕に力を入れて、答えを催促してきた。
もう、観念、するしかない。
「君と……」
癇癪を起こしたい気持ちを抑えて僕は言った。
「龍麻と…一緒にいたい」
真っ赤になった僕の頬に、龍麻が笑いながら口づけた。
あぁ、もう。
仕方ないなと、僕は泣き笑いで幸せをかみしめた。