第二章 奏でる -1-




「おーっ、ひっさしぶりだなー!」
龍麻の朗らかな声が晴天のもとに鳴り響く。
春といえども山間を吹く風はまだ冷たく、肩を竦めながら壬生はバスを降りた。
飛行機で約一時間。電車で一時間。更にバスを三回乗り換えて二時間行ったところに、龍麻の故郷はあった。
なだらかに続く山と段々畑、古めかしい日本家屋、写真集にでも出てきそうな農村風景がそこには広がっていた。
壬生は田舎を持たない。
祖父母は父方母方共に既に亡くなっている。もともと親戚付き合いが懇意な家柄ではないし、病弱なためか、そもそも子だくさんでもない。だから壬生にとって帰る場所は東京の葛飾しかなかった。
目の前に広がるひどくステレオタイプな「故郷」に、壬生はいささか困惑を覚えた。まるでそう、映画のセットの中にでも居るような気分だ。
龍麻ははち切れんばかりに膨らんだボストンバッグを重たそうに肩に乗せた。中身の大半は、実は数時間前に町中のスーパーでまとめ買いした食糧だ。
「こっちこっち。表歩いて目立ったら困るし」
そう言って龍麻は壬生の手を引いて、どう見ても獣道としか思えないような脇道へと踏み込んで行った。
大きな石や倒木が邪魔する足場の悪い細道を、龍麻は軽々と越えて行った。
荷物は壬生の方が軽い筈なのに、慣れない山道に足がもつれた。長い手足を持て余しつつ、ひどく窮屈そうに自分の後ろを付いてくる壬生を見て、龍麻がけらけらと笑った。
あぁ、だから僕の荷物を重くしないように気を遣ったんだなと、壬生はつい先ほどスーパーの前で起こした一悶着を思い出した。
龍麻は割り勘についてはあっさりと譲歩してくれたが、しかし荷物の分配に付いては頑だった。結局龍麻の頑固さに負けて、買った食料品のすべてを龍麻が持つ事になったのだ。
「ここ道悪いんだけど、この谷越えたらすぐ家の脇に出るんだ」
そう言いながら龍麻は身軽に細く続く道を歩いてゆく。なるほど故郷というだけはあるようだ。
聞く所によると龍麻は10歳頃までここに住んでいたそうだ。それから師匠である紫郎について、日本はおろか世界中を旅して回ったらしい。強い足腰は、そこでも鍛えられたのかもしれない。
四苦八苦しながら、ようやく龍麻の家に出た。龍麻は戸惑う事なくそびえ立つ塀に沿って回り込み、裏口から壬生を案内した。
「悪いな、お客さんなのに」
苦笑しながら壬生を玄関まで先導した。
一目見ただけでひどく広い敷地である事は分かった。土地の中に多少の高低差がある上に、木々のせいで視界が遮られて全体を見回す事はできなかったが、それでも相当な広さがある事は知れた。屋敷も一つではなく複数在るようだった。が、使われている形跡はない。
一際大きく艶やかな材木で建てられている立派な屋敷の前で、龍麻は立ち止まった。
鞄を開けると小さな袋を取り出すと、その中から古びた鍵が転がり出てきた。重たそうな、真鍮製の鍵だ。それを鍵孔に差し込むと、少し乱暴に押し回した。
ぎちりがちり、と鈍い音を立てて、鍵が開いた。
鍵を抜いて再び袋に戻した後、龍麻はくるりと振り返って壬生の顔を見た。にこりと笑って、大仰に一礼をする。
「緋勇の里へ、ようこそ」
古びた音を立てて、戸が開いた。

外見に劣らない内部の重厚さに、壬生は少し気後れした。間口も土間もえらく広く、屋敷そのものも広大だった。龍麻はその屋敷を迷う事なく進んでゆき、水場に比較的近い大きな部屋に壬生を案内した。
「ここ、本当は客間じゃないんだ。俺たちが普通に御飯食べたりするとこなんだけど、別にいいよな?」
二人一緒にいて程良い程度の空間だった。それぞれ部屋の隅に荷物を置く。龍麻は早速鞄の中から食料品の数々を引っ張りだしてきた。
「生ものとかさ、向こうに冷蔵庫在るから適当に持ってって。電気繋がってない筈だからコンセント入れてな」
野菜に牛乳、精肉も出てきた。
「あ、でも帰る時に完全現状復帰すんだから、それ忘れるなよ!」
両腕にそれらを抱えて冷蔵庫へ向かう壬生の背中に向かって、龍麻が叫ぶ。お菓子はまとめて袋に入れて転がしておけば良いだろう。乾物も然り。
壬生の背中を追って、龍麻も台所へと向かう。家庭用冷蔵庫の中はほとんど空で、冷凍庫の中も何も入っていなかった。
「…さすがヒサ子さん、完璧な夏休みの冷蔵庫だ」
そう呟きながら緋勇家の家政婦を思い出す。かっぷくの良い、おっとりとした彼女は、非常に優秀な主婦である。祖父が地方の親戚を尋ね歩く間暇を出された彼女は、もののみごとに冷蔵庫の中身を整理して行ったのである。
「帰りが楽だわ…」
「そうだね」
そう呟きながら二人で諸々詰め込んでゆく。二週間分の食料は結構な量で、あっという間に冷蔵庫がいっぱいになった。
「そろそろ夕飯を作る時間だね」
西の空がほの赤く染まり始めたのを見て壬生が呟いた。
「そうだな」
最後のトマトを野菜庫にしまいながら龍麻が相づちを打った。

「「じゃん!けん!ぽんッ!」」

「っく…!」
「やったぁ!勝った♪」

壬生はチョキ、龍麻はグーだった。
人間咄嗟の時にはチョキを出すって本当だったんだなと、龍麻は心の中で呟く。 「そんじゃ夕飯よろしく〜♪」
龍麻は意気揚々と部屋に引き返し、夕日に照らされる台所で壬生はふと我に帰った。
「…まな板、どこにあるんだろう」



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