ドッペルゲンガーを殺した




「……っ!」
 神経という神経を引っかかれるような感覚に、ジンは瞬時にダイブアウトの手順を開始した。近くで点滅する数字はまだ半分にも満たなかったが、これ以上此処に居るのは危険だと頭の中で警鐘が眩暈を起こしそうな程鳴り響いている。刹那の後、潜っていたメインフレームが崩壊を始めた。ダイレクトアプローチの為に潜り込み絡ませていた接続を素早く一つ一つ外していくが、外した傍からそれらが消失していく様はジンの手を震えさせるに充分だった。それでも確実にシステムから離脱して、簡易端末のバイザーを投げ捨てた瞬間それが無音でショートした。正確には無音ではなく、辺りの爆発音に紛れた為にその音が拾えなかっただけだ。確かに此処は戦場だが、それにしてもこの雰囲気はあまりに異様である。ジンは先程の感覚を思い出して小さく身体を震わせた。
 身を隠したコンピュータの隙間、ジンの足元で携帯端末が赤い光を点滅させている。結局解読できなかったデータと刀を手に取り、携帯端末の音声を再生しながら広い部屋に飛び出した。こんな中でまだ居たU-TIC機関兵が律儀に銃口を向ける。それを避けながら真っ直ぐに出口を目指した。そのまま脱出するつもりだった。だがエントランスに出たジンは、足を非常階段へと向けた。
 父が失敗した。
 その言葉は正確ではないが、最低でも妹だけは逃がすという予定は最悪な方向へ進んでいる。非常電源が動いていればエレベータが使えただろう。だが一階の時点でそれはもう無理だとわかったので、唯一繋がっている西側階段を必死で登っていく。所々剥き出しになった鉄骨に足をとられる。血が足りないかもしれない。最上階へ出るとここにまで暴走したレアリエンや正気を失ったU-TIC機関兵、U.R.T.V.までもが徘徊していた。既に抜いていた刀を両手で構えて、最短距離を塞ぐもの、それを駆け抜けながら切り捨てた。生死を問題にしなかったので背後でまだ気配は蠢いていたが、ああいった時は全身が目になるのだ、振り向かずとも始めの銃弾は避ける事ができたし、床に落ちていたサブマシンガンを拾い上げ適当に後ろに放てば気配は消えた。そうやって最後の廊下を走り抜ける。


 行きたくない。
 この先は見たくない。
 地下で感じた雰囲気。
 ミルチア全域を覆っているであろう空気の源。
 進みたくない。
 戻りたい。
 逃げ出したい。

 しかし指は壊れたドアをこじ開けた。


 五感全てを動員して状況を把握しようと試みる。一番最悪な事態を想像していた筈だ。したくなかったから最後まではしなかったけれどそれでも考えた筈だ現実はそれより一歩手前で止まっている今ならば。
 ドアの真正面で肉と戯れるアスラをまず二つに斬る。そこから右手少し後ろにあるベッドからこちらを見た一匹を叩き伏せてその次三体目の背後で起こっている現象に目を奪われる。足元でもがくその頭にまだ持っていたサブマシンガンの残弾全てを打ち込み視界を遮った顔を刀の柄で殴り飛ばしたそれでも視線は動かせない。妹の後ろから異形が姿を見せていた。彼女が命を削りながら上げる悲鳴がそれらを呼び寄せている。
 適合者、その意味を漸く理解する。
 妹を通り抜けたグノーシスがジンの背後再び襲いかかろうとしたアスラ27式に触れた。両者を取り巻く空間が一瞬歪み、次の瞬間27式が白い塊となって砕け散る。その音で、ジンは現実に戻った。
 真っ直ぐ前へ踏み込み硬直したまま叫び声を上げ続けるシオンを抱き上げ部屋を飛び出す。先程殺し損ねた気配が蠢く廊下を刀一つで駆け抜け、その間に携帯端末の通信チャンネルを全て開放し展開する連邦軍へミルチアからの離脱を呼びかけた。専用回線など通している暇はなかったしこの状況でそんな考えは浮かばない。敵も味方も最早意味の無いものだ。此処に居るのは、そんなものを通り過ぎた単純な恐怖だった。行きには支障のなかった階段も所々が崩れていたが、ジンは勢いのままにその亀裂を飛び越え下る。炎の溢れ返る廊下も、壊れて滝の様になっているスプリンクラーの下で水を浴びて突っ切った。そうやって漸く飛び出た外は、すっかりグノーシスに満ちていた。雨の勢いは衰えず、だが異様な光を放つ空はまるで昼間のようで。ジンは思わず止まりかけた足を、シオンを抱き直しながら再び動かした。
 あちらこちらが壊された道路を何とか郊外まで進んだところで通信が入る。中将から、迎えの小型船を一艘準備してあるとのことだ。それは若干場所がずれているがほぼ当初の予定と同じ場所であった。了解と、その一言すら声になったかは定かではない。だが木々の間を駆け抜けた先で、確かに船は待っていた。ジンが飛び乗ると同時に船体が浮きドアがゆっくりと閉まる。U-TIC機関、星団連邦、そしてグノーシス。世界の全てに壊された故郷が目の前から消えた。
「……そちらの少女は?」
「妹です」
 積載量限界まで民間人が乗り込んでいる。ジンはブリッジに通され、漸くシオンを放した。
 この子がこの事態を招いたのだ。いつの間にか口も目も閉じ死んだように眠るこの妹が、あのグノーシスを呼び出したのだ。ジンはただその事実で頭が一杯だった。母が倒れた理由、父が母をあの施設に置いた意味、その全てを壊してシオンはこうなってしまった。この事実を、一体どうしたらいいだろう。
「大尉、怪我を!」
 名も知らない兵士の言葉にジンは自分の姿を見た。気付けばあの男に斬られた箇所以外も酷い事になっている。思い切り外気に晒され続けた手は黒く焼けていた。感覚はあるのでそこまで酷くは無いのだろうが見た目は無残だ。刀を収めようと切っ先を鯉口へと宛がう。普通ならそのまま入るはずだったが、先がぶれて収まらない。左手で切っ先を掴もうとして、両手が震えている事に気付いた。
「ぁ、……あぁ、」
 血が足りない。酸素が足りない。此処にきて手足が冷たく、息があがりきっている事に気付く。視界がぶれる。周りで上がる声が渦を巻く。何とか切っ先が鯉口を通り抜けた。そのまま滑り落ちる刀身を見ていたジンは、不意に誰かの視線を感じて顔を上げた。
 そこに、黒い髪を持つ一人の、男が、立ってい、た。
「……あなたは」
 左手元で鍔が清んだ高い音を立てて、ジンの意識はそこで途切れる。


 その後目覚めたベッドの上で、ミルチアが消失したと聞かされた。
 あの男が、部屋の隅に居た。