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上司であったヘルマーは何も言わずに書類にサインをした。理由も聞かなければ引き止める言葉もかけられなかったことは、ジンの気分をいくらか楽にした。だがそのまま無言で書類を受け取り退室しようとしたところで、ヘルマーに呼び止められた。
「覚えていくといい」
表示されたのはアドレスだった。ヘルマーのプライベートアドレスである。
「忘れても構わんがな。だが大尉、何か困ったことがあれば頼ってくれ。友人として、出来る限りのことをしよう」
「中将……」
あらかじめ言って見せようとすれば、ジンは断っただろうから不意に見せた。見てしまえば覚える。それがすでに癖であることをヘルマーは良くわかっている。案の定、ジンは困ったように眉間に皺を寄せてヘルマーを見た。ヘルマーは満足そうに笑うと映像を消した。
部下であった目の前の男がこのアドレスを使うことはないだろうと、元上司になったヘルマーは思ったがそれでも良かった。身寄りもなく傷ついた妹と二人きりになるこの男に、誰かと繋がりがあるのだということを示すことが出来れば。
「実は、まだ公にはなっていないが」
少し声を潜めて、ヘルマーは机に身を乗り出した。盗聴などなんの心配もない特注の部屋で声を潜める必要など全くないが、何事も雰囲気だ。ジンも身体を返して机に近づく。
「近々私も軍を辞める」
「それは……何故」
「今度新たに出来る自治州政府、それの代表討議員へとの打診がある」
「受けるのですか?」
「そのつもりだ」
「それは……良いことです。中将、貴方ならばきっと新しいミルチアは良い方向へと向かうでしょう」
ジンはにこりと笑って言った。思えば笑ったことなどここ暫くなかったので、少し頬の筋肉が痛むことにジンは苦笑する。
「ご活躍をお祈りしています」
「大尉も、身体に気をつけてな」
それ以来二人は会っていない。
ぼんやりと灰色の街を眼下に眺めながら、ジンはすっかり冷めたコーヒーを飲み干した。昼は既に終わり、店内に客の姿はまばらだ。もう少しすれば買い物客が休憩にと訪れるかもしれない。今いるのは少し遅めの昼食を取りにきた客か、ジンのようにただゆっくりと時間をすごすためにコーヒーを必要としている客だけだ。