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「忘れ物は? 博士」
「私の持ち物はこの鞄一つだよ。まぁ、いくつか置いてはきたけれど、取りに戻るほどじゃない」
「そう」
「あぁでも、どこかで着替えを買わせてくれないか。洗って干してそのままだ」
ロマノフを先に行かせ、バナーが後に続く。小屋から外に出ればそこにはシールドの隊員がずらりと並び二人を見ていた。
「で? これからどこへ」
「車で二時間ほど行ったところに輸送機を用意している。それで本部まで飛ぶわ」
「正規ルートじゃなくて安心したよ。パスポートなんてものは持ってないからね」
人垣の間を抜けて車へたどり着く。車には誰も乗っていなかった。促されてその後部座席に乗り込むと、ロマノフは運転席へと身を収めた。
「君が運転を?」
「そうよ。女の運転は不安かしら」
「いや、君の勇気に敬意を表する」
いちいち突っかからないと気の済まない自分にバナーは溜息をつく。ロマノフがバックミラー越しに視線を寄越したがすぐに外した。
車が走り出せば、住み良かった小さな集落もあっという間に消え去った。窓のむこうにそれを眺めながら、今まで何度味わったかしれない無力感と絶望とにバナーは浸る。
「……私のかくれんぼはヘタだったかな」
「いいえ、博士。ただ、私達が軍より上だっただけよ」
「それで、じっと見ていたって訳だ。人間もどきが人の助けになりたいと働いている滑稽な様を」
「博士」
「あぁでも君達のおかげで軍は手を出せなかったのかな、だとしたらお礼を言わないと。お陰でいつもより長くここに居られたからね。観光でインドに来るときは声をかけてよ。通訳をかねて案内をしてあげる」
口の端を持ち上げてどんなに笑っても、黒い影はバナーの足元から消えなかった。
誰かの手の上から逃げて安心していた。誰もちょっかいをかけてこないから、そんな気配も無かったから、誰からも逃げ切れたのだと安心していた。
「……博士?」
嫌な笑いだとバナーも思う。思わずこぼれた声を訝しんだロマノフに、手を振ってから笑みを消した。
どんなに逃げても、結局は誰かの掌の上だったのだ。どんなに逃げても隠れても、誰かの掌から抜け出しても、その先にあるのはまた違う掌。
だが大人しくどちらかの、誰かの掌の上にいるつもりは毛頭無かった。
「これを、博士」
ロマノフが助手席から端末を取り上げると、後部座席のバナーに差し出した。
「セルヴィグ博士がまとめた、四次元キューブのデータ。本部に着くまでに目を通してもらえるかしら」
「第一線から退いた私に理解できる代物だといいんだけど。……ところで、これの使い方はどこに書いてあるのかな」
ロマノフから端末の使い方を聞いて、バナーはようやくディスプレイに資料を開いた。
久しぶりに触れる、研究という名の生き物が、押さえ込んでいたバナーの好奇心をくすぐる。知りたいと思う欲求が年単位の蓋を破って少し顔を覗かせた。同時に疑問が、一つ。
何故、シールドがこの物体を調査するのか。
これを使って世界を牛耳るなんていうことをする訳ではないだろうが、相手の出方を慎重に見極めなければならない理由が一つ増えた。小さく溜息を吐く。今なら多分、無理やり連れてこられたための不機嫌と受け取られるだろう。
「着いたわ」
言われて顔を上げると、広場に止まっている輸送機が見えた。バナーは端末の電源を落とした。
「ナターシャ、君、紐無しバンジー、やったことある?」
「……パラシュートを背負ってならね」
車を止め、サイドブレーキを引きながらロマノフが答える。
「見える景色は綺麗だった?」
皮肉にしてはあまりにバナーの声が静かだったので、ロマノフは振り返ることをせずにやはり静かに答えた。
「綺麗だったわ。足元に広がる大地と海。何もかもが玩具みたいに小さくて、一瞬自分が何をするつもりなのか忘れるわね」
そう言ってロマノフは車を降りた。
「……そんなに、悪いものじゃないらしい」
鞄を肩から提げ、端末を小脇に抱えると、バナーは続いて車から降りた。
- [12/10/18]
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