ある一日




「ばな! バナお帰り!」
 組立工場から帰ってくると、近所に住む少女がバナーを見上げて手を振った。バナーはそれに手を振って答えながら、彼女の服装について片言の言葉で尋ねる。
「服、どうしたの? きれいだね」
「きょうはおまつりだから!」
 見れば、朝まではいつも通りの町が素朴な飾りで彩られていた。
「気付かなかった……」
「バナ、いつも下見てる。上見るときれいよ」
 色とりどりの布が架けられ、人々はこの日のためにとっておきの服を出す。夜店もでていたというのに、バナーは全く気付かなかった自分に苦笑した。教えてくれた少女の手に、工場で貰った飴を落とす。少女はそれを大事に両手で握ると、母親の待つ家へと帰っていった。
「お祭りか」
 そういえば随分と、そういった習慣からは離れて暮らしていた。
 異国に来れば異国の風習がある。どこでもかならずクリスマスを祝うわけではないし、自分の知る新年が新年でない場合もある。
 格安で借りた小さな部屋の小さなベッドのそばに小さな鞄を置く。顔を洗ったら少し、表に出てみようかなどと思ったバナーの気持ちは、だが次の瞬間聞こえてきた音に叩きのめされた。
 爆竹だった。そして花火。
 目を開いているはずなのに目の前に銃口が見える。人々の歓喜の声も、恐怖に震える悲鳴にしか聞こえない。
 置いたばかりの鞄をひっつかんでバナーは裏口から表に飛び出した。
 酒と料理を手に賑わう人の中を町の外へと走り抜ける。背後に響く爆音に脅され何度も路地を曲がる。最短距離の何倍もかけてようやく町の外れ、丘の上へと出た。へたりと座り込みながら町を振り返ると、遠くに花火が見えた。随分と小さく、乾いた音で上がっていた。記憶の中の爆撃には到底及ばない、小さな音だった。
「ははっ……」
 乾いた笑いは、胃からせり上がる何かにかき消された。体を返し四つん這いで、バナーは嘔吐した。跳ねた飛沫が地についた手と膝を汚す。沸き立つ臭いにまた胃がうねる。そんなループを何周目かで脱したバナーは、袖口の汚れていない部分で口元を拭うと、祭りが終わるまでもう少し離れた場所で過ごそうと立ち上がった。
 背後から、男の声がした。振り返れば暗闇でも充分わかるくらい顔を赤くした男達が三人いた。手にはアルコールが入っていたのだろう瓶をそれぞれ持っている。
 ようやく片言の言葉を話せるようになったバナーに、酔っぱらいの言葉は難しすぎた。だがこういった場合に絡んでくる輩の言葉など、どの本を開いたって同じだ。そして、とる行動も。
 金を要求し適度にサンドバックにして憂さ晴らし。彼らもそのつもりだった。
バナーは必死にどうやってここを切り抜けるかを考えていた。考えながら訴える。
「僕を、怒らせないで」
 それを聞いた人間の、反応もよく知っている。それでもバナーはそう訴えるしかない。それが彼の祈りだからだ。
「怒らせないで」
 叶わないと知ってはいても、それがバナーの祈りだった。
 肩をつかもうと腕を伸ばしたその腕をとり、足を払って地面に転がす。表情を変えてつかみかかろうとする二人のうち、近い方の足下に身を沈めて自分の上を転がし、もう一人にぶつけた。三人のうめき声を背中に受けながら、バナーは正面に見える町へと走り出した。花火はまだ上がっているが、後でやり過ごせる場所を探せばいい。今はここから離れることが先だ。
 走り出して三歩目で、目の前に明るく見える町が大きくぶれた。前につんのめりながら視界のはしに捕らえたのは、男達が飲んでいた酒瓶だった。
 コントロールいいなぁ、などと場違いなことを考えながらバナーがうつ伏せに倒れたときには、走ってきた男達が両脇に走り寄っていた。



 おやすみ。
 そういってキスをくれたやさしい父が、一度だけ刃物を取り出したことがある。
 後ろで母が泣き叫んでいて、僕はそれを見上げていた。
 おやすみ。
 祈りながら振り下ろされたそれは僕ではなく母に吸い込まれた。
 僕は目の前で起きている出来事のその意味を理解することなく見ていた。
 おやすみ。
 母は動かず父は泣いていた。
 おやすみ。
 ぼくのあたまを、みどりいろのてがなでる。
 おやすみ。



「っ!」
 急激な意識の浮上がめまいを引き起こす。恐る恐る自分の格好に目をやる必要もなく、見開いた目をそのまましっかりとまた閉じた。そして細く長く息を吐いた。
 バナーは、ボロ雑巾になった衣服をまとって仰向けに倒れていた。眼鏡はない。時計もふきとんでしまっただろう。腕を動かした拍子に鞄は見つけた。彼が運んだのだろうか。想像すると笑えた。
 辺りは静かだった。祭りが終わったのか、それとも獣の咆哮に中止されたのか。辺りを見渡し、そのどちらでもないとバナーは結論付けた。見覚えのない森の中だったからだ。彼は人気のない所へ行こうとする。無事に、町の誰もが彼に気付かず居てくれたらいいと願いながらバナーは体を起こした。まだ空は暗い。そう時間は経っていないようだ。
 バナーは、手や足に付いている黒いモノをどこかで落とせないかと水を探した。唯一無事な鞄を肩に掛け、ぼろぼろの衣服を掻き抱いて、暗闇の中耳を澄ませて川を探した。体温に暖められて漂うこの鉄の臭いが、自分のもので無いことは知っている。だから早く洗い流してしまいたかった。
 だがバナーの耳に聞こえたのは、川のせせらぎではなくブーツが足下の土を踏みしめた、ほんのわずかな音だった。
 途端に頭の中で緑色の警告が響く。お前は無数の銃口を向けられているのだと、ご丁寧にもう一人の怪人が教えてくれた。木々の隙間に人の影が見える。暗視ゴーグルも無しにそれらが見えるのは、この警告を発してくれている彼のおかげだろう。バナーとしては嬉しくも何ともないが。
 バナーは肩から鞄をはずすと、それを遠くに放り投げた。彼がそれをまた持ってきてくれることを少しだけ願って、それからバナーを取り巻く姿の見えない彼らを見渡した。
「君達は知らないと思うけれど、僕の気分は今どん底なんだ。だからとても投げやりだ。どうでもよくなっている。人を傷つけてもどうでもいいと思っている。だってもう傷つけてしまったから。一人傷つけても二人傷つけても。五人でも十人でも百人でも、一度傷つけてしまったら僕の気分は最悪なんだ。だからこれに後何人加わっても変わらない。わかるだろ? 君達のことなんかどうでもよくなっているんだ」
 静かな森に、バナーの声は良く響いた。そんなに大きな声ではないけれど、独特の口調にいっそ笑っていると思えるような声色が、明らかに先ほどまでと辺りの雰囲気を変えている。
「呻く君達を、彼はちぎって投げるよ。踏んで乗り越えるよ。君達の持つ武器は役に立たないよ。こんな山の中だもの、大した装備はないだろう? あったところで彼にはかなわないんだけどね。つまりなにが言いたいかというと、家に帰れってことさ。問答無用で君達とやり合ったっていいんだけれど、できたらなにもしたくないんだ。君達がこのまま銃口を下げて、大人しく家に帰って、家族と食事をとり、シャワーを浴びてベッドに潜るのを僕は願っている。そうしたら僕は僕で、またひっそりとどこかに隠れて誰に何の迷惑もかけないように生きていくから、それでいいだろう? 僕と君達が出会うのは、双方にとって」
 背後で乾いた音がして、バナーの背に小さな衝撃があった。
「……不幸なことだと、言おうとしたんだけどな」
 足下にはひしゃげた麻酔だか弛緩剤だかが入った弾が落ちていた。きっと背中は緑色になっている。普段のバナーになら効いただろう。普段はただの人だから。
「君達は知らないと思うけど」
 浴びせられる銃弾の嵐の中で、バナーはつぶやく。



「これ、結構しんどいんだよ」



 咆哮が響く。



アベ関係なくなってただのハlk。
無印バナーすげぇ可哀想でした。そしてハlkがくそ可愛かった。