ハンカチを返すまで




 夢を、見たんだ。ただそれだけのことさ。
 悪夢だったのかって?
 どうかな。そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。
 僕の人生の大半は、悪夢のようなものだから。
 つまり、何ていうのかな、記録映画? アルバムみたいな夢なんだ。事の始まりから今までに関するね。
 いや、別に構わないけどさ、聞いて愉快な話じゃないとは思うけどな。


 始まりはサイレンの音だ。何か普段とは違うことが起きるのだと、四歳の僕にでもわかったよ。ただ、それが何かまではわからなかった。母は僕を抱いて机の下に潜った。そのうちに父が帰ってくる。父は、母の手を掴むと隣の部屋へと連れて行った。そこに居なさいと僕は母に言われたので、机の下で閉じた扉をじっと見ていたよ。
 しばらくして二人の言い争う声が聞こえてきた。僕はそれを聞きたくなくて、机の下から抜け出すと、お気に入りの人形を持って庭に近い窓のそばで遊ぶんだ。
 しばらくして部屋の扉が開いた。見たことのない顔で父が僕を見ていて、母が泣きながら縋っていた。父は自分に縋る母を押しのけるとキッチンから包丁を持ち出して、振り上げる。僕はそれをじっと見上げていた。
 その包丁は僕には刺さらなかった。母に刺さった。予想外だったんだろう、父は呆然としていた。母は僕に逃げろと言った。
 僕は、目の前で起きていることを理解できていない。ナイフを振りかざされる意味も、刺さったナイフで母がどうなるのかも。
 動かない僕を動かそうとしたのか、母は庭に降りた。こっちよと地面を這いずりながら、僕を呼んだ。僕が、母の側に行こうと立ち上がって庭に続く窓に手をかけたその時、遠くで緑色の爆発が起こった。
 爆風に目を瞑って開くと、そこに両親はもういない。


 この辺りまでは僕の記憶。あの時僕は、何をしているんだろうと思いながら二人を見ていたよ。本当に、わかっていなかったんだ。父と母がどこかへ連れて行かれるのを見てようやく置いていかれるんだと思って、母とはもう二度と会えないんだとわかったけれど、泣かなかった。元々余り感情を表に出すほうではなかったし、施設に入ってしばらく経つ頃には大本からすっかり忘れてしまったし、それを思い出したのはつい最近だよ。
 思い出した今でも、うん、あまり悲しいとは思わないかな。母には悪いけどね。


 で、当時の家は砂漠にあったのだけど、その風景はそのままに辺りには誰もいなくなる。
 空を見ると、面白いことにデフォルメされたハルク模様で埋め尽くされている。色は勿論緑だ。
 四歳の僕は庭に出て歩き出す。
 すると辺りから色々な音や声が聞こえ始める。
 父を連れて行く軍人の声と車の走行音。母を運ぶ救急隊員の叫びとサイレン。施設の職員の声。僕を引き取った養父母の声。少ないし今では顔も覚えていないけれどそれぞれの学校での友人の声。歩けば歩くほど時代が進み、歩く僕も大きくなる。
 そのうちにベティの声がすると、その日が来る。
 それを境に、聞こえるのは銃声に悲鳴に怒号、そんなものに変わる。戦車のキャタピラ音とか戦闘機の飛行音とか。走り寄る兵士の靴音とか、あぁ、父の断末魔もあったかな。ハーレムを潰したときの破壊音とかも。
 それでも僕は歩いている。
 そうすると、ずっと向こうに誰かが立っていることに気付く。近づいてみるとそれは四歳の僕だ。
 子どもの僕を見下ろしながら、僕は僕の視線の位置がやけに高いことに違和感を覚える。子どもの僕を抱き上げるときに、その違和感には答えが出る。腕が緑色だったから。僕はいつの間にかハルクになっている。
 抱き上げられた四歳の僕は、手にあの日の人形を持っている。緑色の、強い恐竜。
 ハルクの僕と目が合うと、子どもの僕はにこりと笑って、


「そこでいつも目が覚める」


 本当に淡々と、バナーは話し終わって手の中のマグカップに口を付けた。
「魘されて起きる訳じゃないし、嬉しいとか悲しいとか、そういった感情も湧かないし、多分普通の、夢だよ」
「でも朝陽を求める?」
「初めてこの夢を見たとき、視線をやった窓の外にちょうど朝陽があったんだ。そこから何だか、見ないと気が済まなくなってしまって」
「雨や曇りの日は大変だな」
「うん、実際そういう日もあったけれど、何の影響もなかったね。だから見なくたって本当は構わないんだ」
 すっかり熱を失ったミルクをカップの中で回しながら、バナーはちらりと隣のスタークを見た。
「……悪かったね、つき合わせて」
「何を言う。それならこちらこそ悪かった。博士は一人で居たかったろうに無理に居座り夢の話までさせて」
「そんなこと」
「そう、そんなこと」
 バナーと同じようにマグカップを回しながら、スタークはそういって視線を合わせた。
「髭、ミルクがついてる」
「おっと」
 バナーがわずかに笑ったことに内心安堵して、スタークはぺろりとミルクを舐めとった。
 バナーとスタークは、タワーの最上階、ハルクがロキをこてんぱんにのしたあの部屋から外を眺めていた。バナーの部屋は窓が東についていなかったから、彼はJ.A.R.V.I.S.に東に窓がある場所へ案内を願った。廊下でスタークに声をかけられ、朝陽を見たいとだけ告げるとそれなら最上階がいいとこの部屋へ連れてこられたのだ。
 二人でソファの位置をかえ、マグカップにホットミルクを入れて並んで座っている。
 悪夢ではないとバナーは言うが、かといって愉快な夢でもないだろう。宛がった客室から出てきたバナーの顔を見たとき、スタークは思わず声をかけずには居られなかったのだから。折角だから僕も見ようと、彼の隣に座ったときの表情に比べれば、今のバナーは大分落ち着いたように見える。
 バナーが視線を外に戻したのを見て、スタークも前を向いた。遠くに見える山の稜線は、少し色を変え始めている。
「あぁ、ほら。陽が昇るぞ」
 思えば、朝陽が昇るところを誰かと見たことはないとバナーは振り返った。研究室で徹夜をして夜明けを迎えたとしても、気付いたときには既に陽は昇っていた。朝露が光るその中を二人で家に帰ることはあっても、いざそのときを見るようになった頃にはバナーは既に一人だった。
「……ほら」
 光がさして、先ほどまでどちらかといえば少し肌寒かった空気が暖められる。それにつられて、覚えのある間隔がバナーの眉間に広がったところでスタークから声がかかった。太陽から眼を離して隣を見ると、スタークは顔を正面に向けたままハンカチをバナーに差し出していた。
「これは?」
「見てわからないか。ハンカチだ。バナー、君、泣きそうだぞ?」
「泣かないよ……」
 そういっては見たものの、自信はなかった。横目でちらりとこちらを見ながら尚も、スタークが手を差し出してくるので、バナーはそっとハンカチを受け取る。
「君のハンカチは高そうだな」
「まぁ、当然安くはない」
 洗って返すのと新しいのを買うのとでは、後ろのほうが良いだろうなとバナーは思いながらまた視線を正面に向ける。
 だからスタークがバナーを見ながら言い辛そうに何度か唇を動かした挙句、何とか言葉を発したその表情を見逃した。
「……だが、友人にはタダでいい、ブルース」
 急に呼ばれたファーストネームにバナーが再び視線をスタークに向けると、スタークは既にバナーとは反対側へと顔を向けていた。
「スターク、今、何て?」
「……」
「ねぇ、スターク」
「……」
「ねぇったら」
「大概君もしつこいな! ほら、太陽が昇ってしまうぞ前を見ろ!」
 勢いよく振り返ったスタークにバナーは無理やり正面を向かされる。その際見えたスタークの顔は、少し赤く染まっていた。
 誰と誰が何だって?
 文字にして僅か、ただの一単語をバナーが理解し飲み込むまでには途方もない時間が必要だった。その間に太陽は身体の半分を水平線より引き抜いて、あとはするりと昇っていった。その途方もない時間を、スタークもバナーの隣で待っていた。ハンカチを握り締めて昇る太陽を見つめたまま、瞬き一つも忘れたようなバナーをスタークはじっと待っていた。
「……君が隣にいて良かった」
 あまりにバナーが動かないので何か声をかけようかといい加減スタークが思い始めた頃、ぽつりと呟きがこぼれた。
「君が、隣にいてくれて良かったよ……トニー」
 ためらった末に口にされたその単語と、あわせるように瞬いたバナーの眼から水がこぼれる。予想された展開だが、だがいざ目の前にすると少々焦る。スタークはどうしていいかわからずただその姿を見ていた。
 バナーは持っていたマグカップを足元に置くと、空いた手で眼鏡を外した。そうして、もう一方の手で持っていたハンカチで顔を覆うと泣いた。
「好きに泣けブルース。どうせここには私しかいない」
「……J.A.R.V.I.S.は?」
『お呼びですか』
「ミューーーーート!!」
 肝心なときに気の利かない執事を黙らせるスタークに、ハンカチから少し顔を上げてバナーは笑った。それもすぐまた涙に沈む。
 声を抑えようとする荒い息遣いと、鼻をすする音とが部屋に響く。スタークはやはり少し迷ってから、その癖のある髪の毛に手を突っ込み、少々豪快にバナーの頭を撫でた。何しろ人の頭を撫でたことがないから力加減がわからない。それでも効果はあったようで、バナーから少し、声が漏れた。
 正直スタークには、バナーが泣いている理由はわからない。だがこの涙は悪いものではないはずだ、それは確信できた。
 なぁ、君。ブルース。ずっとここにいるって言えよ。
 近いうちに居なくなるこの友人をどうやって引き止めるべきか。スタークはバナーがタワーに着てからずっと頭を悩ませている。
 何のひねりも無いストレートな台詞を飲み込んで、スタークはバナーが泣き止むまでずっと彼の頭を撫でていた。