兄の恋物語
仕事へ行くために家を出た。
ただし、今日はいつもより三十分も速い電車でだ。眠い。
人の流れは幾分か少ないもののそれでも充分な人ごみである事は確かで、これから完全に逃げ出す為には更に三十分加えて、計一時間ほど時間を早める必要があるだろう。もっとも、睡眠が一番な私としてはそんなことをする気はさらさらない。周りが早めるなり遅らせるなりしてくれればいいのにと、かなりわがままな事を考えながら欠伸をかみ殺した。
切符を買って構内に入り、いつも座っているところより二つ奥のベンチに座った。何故だかはわからない。多分誰も座っていなかったからだ。
「………ふぁ」
小さな欠伸をする。やはりやり慣れない事はするもんじゃない。それもこれも、弟が今日は早く出るからと無駄に早起きなんぞして私まで一緒に追い出すからだ。
「遅刻して困るのは兄さんでしょう?」
そうだが。そうなんだけど。二度寝しない保証はないのだけれど。
「やっぱり二人暮しにしたのは間違いだったかな」
一人のころはしっかり起きられたのに、弟が入学した大学がこっちだからと二人暮しをし始めたらそれも出来なくなった。やろうと思えばできるしするんだが、弟がいると思うと二度寝をしてしまうのだ。
「………まもなく…番線に七時……分発………き普通列車が……り…す…」
アナウンスに顔を上げれば向かいの番線に列車が来たらしい。こっちではなかった。
自分が乗る電車を確かめようと視線を外そうとしたが、それはできなかった。
何と言うのだろう。
言葉ではとても言い表せず、ただ、見つめるだけ。
その長い髪。
肩掛けバッグを押さえる手。
整った顔立ち。
眼鏡の奥にある強い意思を秘めたような瞳。
彼がどこかを見ていた視線を正面、つまりは私のほうへ戻し、一瞬視線が合ったように感じた瞬間、電車がホームに入ってきた。
私はあっけにとられていた。
こんなことがあるとは露にも思っていなかった。
一目惚れだ。一目惚れと言うやつだ。
まさかこんなことがあるだなんて。
そんな馬鹿な。
私はその日一日彼のことばかりを思っていた。もちろん、仕事をしつつ。それ以外の時間はできるだけそれに充てた。今朝、一分とは見ていない彼の顔は、だがしかしはっきりと瞼に浮かぶ。何故だろう。瞬間記憶などの特技など持っていないのにあんなにはっきり覚えているなんて。
そういえばあの顔、どこかで見たことがあるような。
「ん?」
私は家の居間で洗濯物をたたみながら、台所で料理をする弟の後姿を眺めた。
そういえば、彼はアレに似ている気がする。
「どうかしました? 兄さん。手が止まってますよ」
そういって振り返った幸鷹と、今朝のあの子を重ねてみる。
良く似ている。
でも。
「…………………ときめかない」
「私にときめかれても困りますけどね?」
何を考えているのだという風に冷めた目で見下ろされた。
翌日から、私の電車は二本早くなった。
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