たまご
動け。
動け。
こんなことで止まってる場合じゃない。
やらなければいけない事があるだろう。
きっとあるだろう。
ここで止まってどうする。
動け。
動け。
うごけ。
「……で?」
「は、先日の一件で両手にヒビが数箇所、打撲が数箇所。物的被害はベッドとドア一枚、あと壁が凹みました。溜めていたものが一気に噴出したんでしょうね。それでも刀を抜かなかったのは凄いというか何と言うか……」
「それが彼の悲しいところさ」
最後の最後で踏み止まれてしまう彼の悲しい強さ。
「こちらです」
最後に彼に会った時とは違う病室に通される。部屋の中にはベッドが一つ、脇には看護士が立っていた。彼女の横に立ち、ヘルマーはベッドに寝ているジンを見下ろした。
「医師が駆けつけたときにはまだ意識がありました。こちらからの問いかけにも応えましたし、自分のした事もちゃんとわかっていました。その後激しい倦怠感を訴え、すぐに意識喪失。現在は呼吸、脈拍とも正常より低下した状態、所謂冬眠状態というやつです」
長い髪をベッドの上に散らし、ジンは眠っていた。右腕には点滴用の管が刺さり、幾つか計測用の端子が付いている。傍らの機械に彼が生きている事を示す波形が、確かにゆっくりと感じる速度で刻まれていた。
「身体的原因はわかりません。が、心的となると話は別で」
「だろうな。どちらかと言えばそうだろうと私も思うよ。素人だがね」
そうやって自分で解決してしまうつもりなのだ。誰にも何もさせずに自分で乗り越えて行こうとするのだ。そして事実歩き出してしまう。それがヘルマーにはつらい事だった。
「……?」
視線の先でジンの瞼が震えた。そしてゆっくりと隠れた瞳が現れる。驚き声をかけようとしたヘルマーを医師が止めた。
「時折こうして目を開きますが意識はありません。脳波はまだ眠っている状態を示しています」
「そうか……」
医師の言葉を肯定するように、ジンの瞳は真っ直ぐ天井を見つめたまま僅かに動きもしなかった。少しベッドに近づき真上から覗き込んだがそれでも止まったままだ。
ヘルマーは何度目か解らない溜息を付いてベッドから離れた。そのスペースに看護士が近づき、ジンに目薬をさそうとする。
「それは?」
「角膜保護の目薬です。あのまま瞬きせずに三時間とか、良くあるんですよ」
医師の目配せで看護士が動きを再開する。両目に一滴ずつ落とされた水が、少しして目尻から零れる。それを拭おうとした看護士に声をかけた。
「暫く、そのままにしておいてくれないか」
「? ……はぁ」
泣いているように見えた。彼が泣く日は来ないだろう。少なくとも自分の前では。だから自己満足でもこんな事をしたくなる。何にもならないと分かっていても、本当に虚しいとわかっていても。
「シオン・ウヅキの様子はどうかね」
「最近漸くぬいぐるみなんかに興味を持つようになりました。まだ笑いも泣きもしませんけれどね」
「良い傾向と、云っていいのかな」
「取りあえずは」
病室の扉がノックされる。次の予定が近い事を知らせた。ヘルマーは今一度ジンのベッドに近づき頭を撫でた。
どうせならこのまま意識が戻らなければいい。目を覚ませば彼はまた傷を内に抱え込み歩く事になる。あの二人ともいずれ出会うだろう。妹の事もある。彼は一人で歩いていくだろう。ならばずっとこのままの方が。そんな事にはならないし彼の意識が一刻も早く戻ることを祈っているが、不意にそんな考えも浮かぶ。
結局自分にできる事など何もないのだ。そんな無力感を、過去に何度も味わってきた。だがそんな無力感くらい、彼のそれを思えば何でもない。
ヘルマーは最後に一度、そっとジンの頭を撫でて病室を後にした。
→ 「壁一枚」
- [07/08/31]
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