青葉 -1-




座り心地の良さで選んだソファが、いまや龍麻の定位置である。
その気に入りの場所に腰掛け、龍麻はスコット・フィッツジェラルドの『マイ・ロスト・シティ』を読んでいた。米文学に触れ始めたのはここ数か月の事だが、思っていたよりも興味深いと、龍麻は満足していた。
その満足はしかし、秋雨が降り続く風流な今日にあって、長続きはしなかった。
龍麻はページを繰る手を止めて、ふと顔に緊張感を漂わせた。探るような目付きで宙を睨めば、秀麗な柳眉がきりりと持ち上がった。
持ち上がって、それから眉間にぐぐいと皺が寄る。不機嫌そうな表情のまま、龍麻は玄関のある方向を睨み続けた。手元を見ないまま、慣れた手つきで本に栞を挟みローテーブルに置く。
深く刻まれた皺をそのままに、龍麻は立ち上がって玄関に向かって歩きだした。重い扉の前に立つと、数呼吸おいた後扉の鍵を外して押し開けた。
そこには、黒いコートを着た壬生が、ずぶ濡れになって立っていた。
そしてその胸元には

「アンッ」

「なんだ、これは?」
「………ごめん」
同じく濡れそぼった、子犬がいた。



一緒に住もうと言い出したのは、意外にも龍麻の方からだった。呆気にとられる壬生を、いつものように置いてけぼりにして、龍麻は秋月のツテを借りてさっさと物件を決めてしまった。
見つけてきた都内の一等地に建つ高級マンションは3LDKで、築は3年。普通に購入すれば億は下らず、賃貸にしても月数十万はするだろう代物だった。それを「柾希様薫様、御両名の御友人」の名目のもと、目眩がするほどの安値で借りている。
突然殿上人の生活をする事になった壬生は始め激しく当惑したが、慣れてしまえばむしろ快適だった。
高級マンション、というのは間違いではなかったが、同時に名目でもあり、ここは秋月及び陰陽寮関係者のための特殊な住居だったのだ。綿密に張り巡らされた結界は魔性どころか邪心を抱く人間さえ寄せ付けない。
おかげで龍麻も壬生も、家にいる時は素直にくつろげた。尤も、龍麻は独自に自宅に結界をしくことも忘れなかったが。
そこで二人は奇妙な共同生活を行っていた。同棲、と言おうと思えば言えなくもないが、壬生はそういった俗な言葉で自分達の生活を縛りたくなかった。龍麻に至っては、特になんの感想も持っていないようだった。
いま、その件のマンションで濡れ鼠と黄龍が対峙していた。
「どうするつもりだ?」
不快感を隠しもしない顔で龍麻が壬生に言った。
「………ペット禁止じゃなかったと、思うけど」
「だめだ」
不安そうにうなだれる壬生に、龍麻はすげなく返した。
「でも……」
泣きそうな顔をする壬生に、龍麻は盛大な溜め息をつく。
「まぁいい。さっさとあがれ」
龍麻の許しがなければ、何者も敷居を跨ぐ事はまかりならない。壬生はもちろん自由に出入り出来るが、抱えた子犬は、無理に通そうとすれば一瞬にして消し墨くらいにはなってしまうだろう。
「早く着替えろ」
壬生の胸元から子犬を引きずり出す。いささか乱暴な手付きではあったが、子犬は暴れもせずその腕におさまった。子犬の濡れた身体が龍麻の着る服を濡らすが、本人はお構いなしにさっさと風呂場へ行ってしまった。残された壬生は、仕方なく自室へと向かった。
「おい紅葉」
コートを脱いで吊るし、張り付くシャツを脱いだところで龍麻がドアを開けた。半裸の壬生にも顔色一つ変えず、タオルを放って寄越す。
普通の女ならば鍛えられた肢体に溜め息の一つも吐き出しそうなものだが、龍麻にはどうでもいいことらしい。
可愛らしい反応を最早期待すらしていない壬生は、それでも人知れず溜め息をつきながら、タオルで頭を拭きながら龍麻の後に続いた。
風呂場では子犬が大人しくお座りをしていたが、壬生の姿を認めた瞬間にちぎれんばかりに尻尾を振って喧しく吠え立てた。
「前にも何回か見掛けてるんだ」
バツが悪そうな顔で壬生が言い訳した。
見掛けたどころではないことはすぐ見抜けたが、龍麻は咎めなかった。
子犬は腕に血を滲ませていた。
拾っても龍麻がいい顔をしない事は壬生にもわかっていた。だから見掛ける度に、少し食べさせたり可愛がるくらいで良かった。
引き取り手がいないか、友人をあたったりもした。が、残念ながら引き取り手は見つからず、しかもこの怪我である。いてもたってもいられず、拾ってきてしまったのだ。
弱者に対しては、壬生は愚かなほど優しい。尤も、強者には容赦ないのだが。
相手によらず常に容赦ない龍麻と、壬生はそこが違った。口には出さないが、そこが壬生の壬生たるべき点だと内心認めている龍麻は、最早口を挟めない。
「洗っておけ。ついでにお前も暖まっておくんだな」
龍麻は踵を返すと、バスルームの戸を閉めた。ぱたりと閉ざされた扉を見ながら、壬生はぽつりと言った。
「……認めて、くれたのかな」
「アンッ」
尻尾振り振り、子犬が同意を示す。
「…追い出されないように、龍麻の前では良い子にしてるんだよ?」
分かってますよ、とでも言いた気な顔つきで、子犬がくぅんと鼻を鳴らした。

子犬共々暖まって風呂を出れば、着替えがきちんと用意してあり、犬用と思しき使い古しのタオルも置かれていた。
素っ気ないくせに、龍麻は優しい。否、優しいくせに素っ気ない。
やっぱり僕は、自分で思っているよりも甘やかされているんだろうかと思いながら、壬生は部屋着に袖を通した。
リビングに向かうと、龍麻はキッチンでコーヒーを淹れていた。壬生から見るとちょうど背中が見える。
びったりとしたTシャツを着ているため、身体のラインが露わになっている。細い、と改めて思う。
龍麻は、ひどく細くて折れてしまいそうで、強い光をたたえた瞳が見えない時はいつでも頼りなく見えて、いつも壬生は堪らない心持ちになってしまう。それは、欲情とか庇護欲とかではなくて、もっと切なくて苦しい感情だった。
骨張った肩が動いて、マグに琥珀色の飲み物を注ぐ。髪を上げて向きだしになったうなじ、浮き出た頸骨、女性のものとは思えないくらいスレンダーな腰。
「なんだ。何かあったか」
突然後ろから抱き締めてきた壬生に、毛の先ほども動揺せず龍麻が言った。回された腕を振り払ったりはせず、窮屈そうにカウンターにマグを置き、セサミクラッカーを小皿に盛る。
「龍麻」
名前を呼ぶ。
「龍麻」
また、呼ぶ。
龍麻は「ふん」と鼻を鳴らすと、壬生の腕の中で身体を捻った。
「阿呆だろ、お前は」
そう言いながらも丁寧な指使いで頭を撫でる。犬猫を可愛がるような仕草だが、これが僅かな人間に許された特権である事を壬生は知っている。
細く繊細な指先が、拳で戦うものとは思えない程繊細な指先が、壬生の頭を何度も往復する。柔らかな感触に、壬生はそっと目を閉じた。
「いい加減離せ」
しばらく撫でた後、龍麻は壬生を押した。大人しく離れた壬生に、龍麻は顎をしゃくって言う。
「で?こいつは何を飲むんだ?」
放っておかれたわんこが、切な気な顔で壬生に擦り寄った。