青葉 -5-




「……な、こ…これ、は………」
ハァーッ、ハァーッと荒く息をする巨大な犬の前で、壬生は完全に硬直していた。
橋姫が消え、無事絵を回収した壬生の目の前に、のっしと黒い犬が立ち塞がったかと思えばぺたんとそのまま腰を下ろしたのだった。
攻撃する気もないようで、ただ壬生を見ている。
見ているとは言っても、よく見ればその目は先程の鬼女同様山吹色に光り、赤く血走り、瞳もまた深い紅に染まっていて不気味な事この上ない。
しかも深く裂けた口と血に濡れてぎらぎらと光る牙もまた、先程の橋姫と同様の恐ろしさだった。
逆立つ毛は漆黒の色で、夜の闇に溶けてところどころ輪郭を失っている。
全身から発せられる陰気は凄まじく、同様の気を纏う壬生ですら息苦しく感じる程であった。
「誉めて欲しいのだろう。誉めてやれ」
「誉め………」
面倒くさそうに遠くから…おそらく龍麻にとってもこの陰気はいささか強すぎるのだろう、少し離れたところから壬生に声を掛ける。
言われた言葉に壬生はまた絶句する。
見れば尻尾がぱたんぱたんと左右に揺れている。血走った目も、心なしかどこか得意気だ。
尻尾の動きを見て、壬生ははたと思い当たった。
「ひょっとしてこの犬…あの、えーっと……あの、犬?」
「それ以外にあるか」
呆れた、といった風に龍麻が返す。
言われた壬生に効果音を着けるとしたら「がーーーん」以上に相応しい音は無いだろう。
くらりと目眩を感じながらもう一度巨大な黒犬をまじまじと見れば、右の脚に怪我をした痕が見える。これは、先日拾った時に着いていた傷に相違ない。
日が経って大分良くなり、包帯も取れたのは昨日の事であった。
「そ…そ、んな………」
青ざめる壬生を、龍麻は心底不思議そうな目で見る。
「おい、まさか知らないで拾ってきたのか?」
「し、知らないで……って?」
龍麻がくいと首を傾げて壬生を見た。

「だってこいつ、狗神だろう?」

「い…ぬ、がみ…犬神……あぁそう、真神の生物の………」
「現実逃避をするな」
ぴしゃりと龍麻が壬生に言う。
「知らんのか?飢えた犬を首を残して土に埋め、水やら肉やらを食えないぎりぎりの場所で散々見せつけて餓死させ、或いは嬲り殺し、その憎悪怨恨の想いを法程式に落とした傀のことだ」
そういえば以前何かの文献で読んだなぁ、と壬生は思いながら非現実感の中を浮遊していた。
狗神……狗神……拾ってきた………あの、犬が。
あの、子犬が。
これ。
……これ。
真っ黒な、これ。
どう見ても熊並のサイズの、これ。
目を血走らせて真っ赤な舌をべろりと出している、これ。
橋姫の喉笛を噛み裂いた、これ。
「わ、あ、あ……」
頭を抱えてしゃがみ込みたかった。
「いいから、誉めてやれよ」
いい加減面倒くさくなったのか、龍麻は壬生の背後に回って背中を小突いた。
「誉める……」
くらくらとする頭を無理やり理性で押し付けて、壬生は仕方なく、そして恐る恐る、巨大な犬の顎下を撫でてやった。
「グルルゥ……」
犬は、さも気持ち良さそうに目を瞑りながら、唸った。
泣きたい。



「で、結局飼ってるのかい」
村雨は無精髭の浮いた顎をざらりと撫でながら、さも愉快そうに壬生に聞いた。
「えぇ……」
「よく懐いている」
「……」
「紅葉を主人だと思っている」
龍麻の追い打ちに、壬生がはぁっと溜め息をついた。
膝の上でころころ遊ぶ犬こそ、例の狗神である。どうやら自在に姿を操れるようで、いつもはこの可愛い姿で過ごしている。
幸いにしてその後、この犬が本性を現す機会は橋姫の一件以降、まだ、無い。
「本当に…こうしてれば可愛いのに……」
耳の後ろを指先で掻いてやれば、「クゥン…」と目を細めて鳴いた。
ぱたぱたと尻尾を振る姿は無邪気そのもので、壬生の頬もつい緩む。
「それにしても、狗神と知らず拾って来るとはな…」
「だって、この姿を見たら普通の犬だと思うでしょう?」
如月の漏らした言葉に、壬生が口を尖らせる。
「見れば分かるだろう。だから反対したのだ。普通の犬ならば止めなどしなかった」
如月に出された玉露を啜りながら、龍麻が胡乱な目で言った。
どうらやら、龍麻には分かるらしい。さすがとしか言い様が無いが、だが壬生にとってはその慧眼が恨めしかった。
できたら、自分がそこまで聡くない事も頭に入れておいて欲しいものだ。
龍麻には、自分が出来る事は壬生にも出来ると思い込んでいる節があって、そのせいで壬生は困難な目に幾度も遭遇している。
「そういや、名前はどうしたんだ?」
村雨が寝転がって子犬をつつきながら聞く。
「青葉」
「ほう」
村雨の悪戯から犬を救出しながら、簡潔に壬生が答える。
「それ、お前さんが付けたのかい?」
「いや、龍麻に付けて貰ったよ。僕じゃなかなかいい名前を付けてやれなかったから」
「へぇえ」
村雨がニヤリと笑った。
「愛されてんなぁ、壬生」
「村雨」
ギロリと龍麻が村雨を睨みつける。
おー怖、と言いながら村雨は降参降参と、両手を上げた。
「愛されてる?誰に?」
キョトンとする壬生に、村雨は苦笑を、如月は溜め息を漏らす。
「兎に角、狗神には懐かれるし橋姫には出会えるし、君は幸せ者だってことさ」
如月の皮肉に、壬生は
「何ですかそれは。全然幸せ者じゃないじゃないですか」
と、眉を寄せた。

今日も、東京は平和である。



勿論、「青葉」は「紅葉」にちなんで付けられています。
あ、狗神は当て字です。犬神だと例の人になってしまうので。
書きたい要素は全部書ききれたので満足です。
とりあえず壬生と子犬って萌えだよね、とか。
とりあえず壬生はヘタレでいいよね、とか。
とりあえず愛されてる壬生っていいよね、とか。とか。とかとかとか。

女主人公もそこそこマイ理想の姿で書けたんじゃないかな、と。
私は雄々しい女性と、女々しい男性が好きなので、ノーマルカポーになるとこんな感じです。
カカァ天下最高。特に壬生相手は。尻に敷かれてしまえ!

というわけで、本サイト初の女主人公、如何でしたでしょうか。
御楽しみ頂けましたら幸いです。

増えます。 (え