青葉 -4-




「運がいいと、言うべきかな?」
それは、張り込みを初めて三日目の夜に起こった。
深夜一時、学生街である穴八幡宮周辺は静まり返り、通り抜ける車もまばらな有様となっていた。
昼間から夜半に掛けて学生達が生み出す熱気は成を潜め、近辺は静まり返って穏やかだ。
否。
穏やかな筈、だった。
落ち着いた様子の町を、秋とは思えない冷気が包み込む。それは肌で感じる寒さ、ではなく、心で感じ取る冷たさであった。
妖気が、町を包む。壬生と龍麻は、その源を探った。
「………どうやって、行くのだ」
眉間に皺を寄せて、龍麻が呟いた。
場所はもうとっくに特定できている。が、その場所は周辺の地理に明るくはない二人に取っていささか分かり辛い場所にあった。
無論、張り込みを開始する前に周辺は十分に散策したし、地図も頭に叩き込んである。
しかしいざ目的地が定まってみると、穴八幡宮周辺は非常に分かりにくい立地となっていた。
「跳んでいくかい?」
顎をしゃくって壬生が言った。壬生もいい加減、現場に辿り着きたかった。
人の命が、一分一秒にかかっているのだ。かつては奪うために憂慮した時間を、今は救うために気に掛けている事を、壬生は皮肉に思った。
「好まぬが…致し方あるまいな」
龍麻が天を仰ぎ見る。瞬間、龍麻の華奢な身体が宙に舞っていた。
細い足からは想像もできない強靭な力で、地面を蹴る。
浮遊する身体は軽やかに建物の壁を蹴り、屋上へと跳ね上がる。そのままごく自然な動きで、龍麻は建物から建物へと「跳んで」いった。
踊るように宙を舞うしなやかな肢体を追って、壬生も跳ぶ。壬生の方がリーチは長い。脚の鍛え方では勿論、龍麻に勝っている。
「やれやれ。ヒトに見られていない事を願うよ」
溜め息まじりに、龍麻は目的地へと舞い降りた。その背後に、壬生が着地する。
二人の目線の先には、気を失ったのかぐったりとしているスーツ姿の男性と、額に二本、頭部に三本の角を生やした、女が居た。
その女の口は、赤く、耳元まで、裂けていた。
覗く牙の白さがいっそ美しいくらいで恐ろしい。男性が理想とするであろう艶かしい体つきもまた、顔さえ見なければ見事な物だった。
「えーと、なんだっけ。君が前読んでた漫画を思い出すな」
「『寄生獣』?」
「そう、それ」
悠長な会話を交わしながら、二人は一瞬にして散じた。
二人が立っていたところには、代わりに鬼が立っており、ちょうど「かつん」と歯を鳴らしたところだった。
鬼はすっと目を細めると二人の退魔師を見た。
「確かに。『口だけ顔』と見ようと思えば、見れなくもないな」
軽口を叩きながら、龍麻が地面を蹴った。神速の剣士の抜刀を上回る早さから、逃れた者はいない。
が、その鬼はそれをやってのけた。
龍麻が繰り出した拳は空を切り、切れ長の目が驚愕に見開かれる。
まさか、と龍麻は思う。まさか自分の拳を避けられるとは。
宙に跳んだ鬼は姿を本来の悪鬼足るべくものに変容させていた。むき出しの上半身に、深紅の腰布。掌は異常に大きく、かぎ爪が生々しい。
吊り上がった目は異様に大きく、山吹色に染まってギラギラと夜闇の中で光っていた。その目が、大樹の上に危なげなく立っていた壬生の姿を捉える。
ぶぉおッん
空を切る音は鈍く低く、かぎ爪が木立の頂点を抉った。
壬生は紙一重の差でそれを避け、不安定な足場であるにも関わらず、強烈な蹴りを繰り出した。
「止せッ!」
龍麻が跳び、下から蹴りを跳ばす。
壬生の脚をその強靭な顎と牙で受け止めようと口を開いた鬼女は、龍麻の攻撃を避けるべく身を翻した。
龍麻が着地するよりも早く降りた鬼は、間髪入れず龍麻に襲いかかった。その頭上を壬生の蹴りが見舞うが、鬼女はそれを避けつつ龍麻に向かって牙をむき出した。
身を低くして回り込む龍麻に、今度は鋭いかぎ爪が襲いかかる。龍麻はそれを跳んで躱すが、躱した次の瞬間目の前に新たなかぎ爪が現れる。
(妖術!?)
最初のかぎ爪は幻惑だったかと思いながら身を捩る。
「………ッ!」
「龍麻ッ!」
致命傷ではないにせよ。かぎ爪が龍麻の左肩を抉った。
衝撃で吹き飛ばされ、地面に叩き付けられる龍麻に駆け寄ろうとする壬生を、龍麻は凄まじい形相で睨みつけた。
「馬鹿者!狼狽する暇があったら攻撃しろ!」
龍麻の叱責に、壬生は我を取り戻す。今度は壬生めがけて繰り出される攻撃を、再び跳ぶ事で回避する。
「…妖術ではなかったか」
鬼女の姿を見て、龍麻は納得した。鬼女の腕が異様に長く伸びていた。確かに鬼は異形のモノだ、人間の身体感覚で捉えようとする方が間違っている。
「……鈍ったか。愚かだな」
いささか自嘲気味にそう言って捨てると、龍麻は拳に気を溜め込んだ。
「巫炎ッ!」
神聖な炎が鬼めがけて襲いかかった。
横に跳んで避けるその軌道を先読みしていた龍麻は、既に鬼女の脇に回り込んでいた。
「破ァ……ッ!」
気を溜め込んだ重い一発を繰り出す。同時に、壬生は後方から龍神翔を放った。
鬼女は龍麻とは反対方向に飛びすさり、壬生の攻撃共々かわした。しかし龍麻の拳が放った勢いは消えず、気迫が鬼女の脇腹を撃つ。直接打ち込む程の威力はないが、それでも相当なダメージとなる筈だ。
しかし。
「ギゥウウゥ、うぅう…くぅううぅ……」
鬼女はそれを持ちこたえた。苦痛に顔が歪み、口の端から血が垂れるがあくまでも膝は着かない。
「くぅ〜ちぃ〜おおぉおぉしぃい〜〜やぁあーーーーー………」
地の底から這い出るような声は、決して快いものではない。鬼女の攻撃を、二人は跳んで躱した。
「どうしたんだ、龍麻!」
「土属性だ、力が相殺する!」
壬生が知るかぎり最強の龍麻だが、鬼女の属性は限りなく純粋な土性のようだ。本来、純粋の五行属性を持つ者は存在しない。
ただ唯一存在する者、それが、緋勇龍麻だ。
しかしそれが故に、大地そのものであるが故に、より純粋に近い土性と木性には、弱い。
「なぁ〜むぅ〜きぃい……みょょーーぉおう、ちょぉおぉ〜〜れぇえーーい……」
がちゃがちゃと爪を鳴らして、鬼女は舌なめずりをして龍麻に迫った。壬生よりも、龍麻の方が殺しやすいと判じたのだろう。
愚弄にするか、と龍麻は気色ばむ。
次々と繰り出される爪の攻撃を避けながら、龍麻は気を叩き込む。しかしそれは、本来の龍麻が持つ強さには到底及ばない威力だった。
「なぁ〜むぅ〜きぃ〜みょーー……ぅ、ちょぉおぉ〜〜れぇえーーい……」
先程と同じ言葉を繰り返し、鬼女はいたぶるように龍麻に迫った。
龍麻に夢中になる鬼女に向かって、壬生が技を放った。慌てて飛びすさった鬼女だが、威力の余波に当てられて吹き飛んだ。
それを見て龍麻が舌打ちをする。木剋土。今回は自分は役立たずのようだ。
「なぁ〜むぅ〜…きみょーーぉおう、ちょぉおぉ〜……れぇえぇーーい……」
吹き飛んだ鬼女は、やはり同じ言葉を繰り返しながら、素早く態勢を整えた。自分に対して攻撃をした壬生に、怒りの目を向ける。
その姿に、龍麻はふと眉をしかめる。そう、これの出没時間。それを見た時に頭をよぎった違和感…目の前の光景に対する既視感。自分は、この妖の正体を、知っている。
龍麻ははっと顔を上げた。
「橋姫だ!壬生、これは橋姫だ!並な力では成敗できぬぞ、心せよ!」
壬生の顔が一瞬引き攣る。橋姫と言えば、男を恨むあまりに鬼と化した女だ。しかしその恨みは希代の陰陽師安倍晴明によって阻まれ、その腹いせに京の男女を、喰らった、という。
そうか、と壬生は思う。頭部から生えた三本の角、深夜一時から三時に出没するという事実。三本の角は橋姫が被ったという鉄輪を表し、また現れる時間はまさに丑の刻。橋姫が男を呪い殺そうと貴船の社に参った時間帯ではないか。
なむきちょうみょうれい、とは、「南無帰命頂令」と唱えているのであろう。神仏に嘆願する時に述べる言葉である。
「ッチ!これだけのヒントがありながら……!」
龍麻は歯噛みしながら、遠方から巫炎を放った。鬼女の脚が、焼ける。
その熱さにおののいたのか、鬼女は絶叫しながら両腕を振り回した。ようやく生み出した隙を龍麻が逃すべくもない。間髪入れず拳を放つ。
「秘拳・鳳凰!」
龍麻の拳から、先程とは比べ物にならないくらい強烈な炎がほとばしる。
燃え盛る火に飛び込んでは再生を果たすという、不死鳥の如く揺らめく火柱が、橋姫目がけて真っ直ぐに飛翔する。
「グゥオオオオオオオオオオオオーーーーー!!!」
正面からまともに鳳凰を受けた鬼女の身体は焼けただれ、裂けた皮膚から血がほとばしった。
「グガアガグギギギギギィーー!!!」
鬼女は盲滅法にかぎ爪を振り回した。
痛みと怒りのために、吊り上がった目が一層吊り上がり、目の端からぷつり、ぷつり、と肉が裂け血が滴った。
それはまるで血涙を流しているかの様で、数百年の時を経ても尚鎮まらない怨恨が流れ出ているようでもあった。
龍麻も壬生も、橋姫が繰り出す凶刃を飛びすさって躱そうとした。が、橋姫の振り回した腕が近くにあった木の枝を刈り、落ちた枝が壬生の肩を直撃した。
躱して跳んだ先で喰らった衝撃に、さしもの壬生も態勢を崩す。
「紅葉!」
慌てた龍麻が橋姫に向かって拳を放つが、それよりも疾く鬼女の牙が傾いだ壬生の身体に迫る。
「紅葉ァ!」
橋姫の牙が壬生の肩に食らいつこうとした瞬間だった。

「アンッ!」

「「!?」」
最早耳に慣れた鳴き声に、二人ははっとした。
橋姫の動きが一瞬鈍る。そこを見逃さない二人ではない。
壬生は崩れた態勢のまま地面に身を伏せ転がり、龍麻は鬼女に向かって再び拳を繰り出した。
髪の毛一本の差で橋姫は龍麻の攻撃を避ける。
「アンッ!」
地面に転がった反動で立ち上がった壬生と橋姫の間に立ち塞がるようにして犬が、例の子犬が、四つ足を踏みしめている。
「なんで……」
玄関も窓もきちんと閉め、ゲージに入れておいた筈だ。が、今はそのような事を考えている暇はない。
一刻も早く犬をこの場から逃がさなくてはと壬生が犬に手を伸ばした瞬間、犬を最弱と見た橋姫が子犬に迫った。
壬生は素早く犬を抱きかかえて駆けるが、なんと犬はその腕から飛び降りた。
予想だにしなかった子犬の行動に、壬生は唖然とする。地面に跳ね降りた子犬は、橋姫の目の前にしっかと立った。
かぎ爪が子犬の小さな身体を捉えようとした次の瞬間だった。
壬生は自分の目を疑った。
つい一瞬前まで愛らしい子犬が立っていたところに、熊程の体躯の巨大な黒い犬が代わりに立っていたのだ。
橋姫がひるみ、かぎ爪が遠のく。
巨大な犬は脚を踏みしめ、高らかに吠えた。
グゥオオオオオオオ………と地の底から響くような低い吠え声を上げると、犬は強靭な脚で地面を蹴り、橋姫に躍りかかった。
雷光が走ったようにしか見えない速度で、犬は違う事なく橋姫の喉笛に噛み付いていた。
「な……!」
壬生は思わず息を呑む。鮮血が飛び散り、犬の毛並みを汚すのが見えた。
振り回されたかぎ爪が身体を裂く前に、犬は跳ねて鬼女から離れた。
喉を噛み切られた橋姫は最早先程までの勢いは無い。犬はもう一吠えすると、鬼女に体当たりをした。
「紅葉!」
鬼女の脇に回り込み名を呼ぶ龍麻の声に壬生ははっと我に帰り、すぐさま龍麻の反対側に回った。
「いくぞ!」
高められた気が、まるで一対の龍のごとく絡み合い、冴え渡る秋の夜空に舞い上がった。
まばゆいほどの光に包まれて、橋姫の身体は塵芥に帰し、ただ一枚の絵がはらりと風に煽られ地面に落ちた。