夜の底を走る -3-
夕方近くなってようやく屋敷に帰った。冷えた身体をストーブの前で暖めていると、ふと予感がしたので龍麻が寝ている座敷の襖を開けてみた。
「…ぶ、くん…?」
ごそごそと動いて、龍麻が目を開けた。
「おはよう」
「ん…」
むっくりと起き上がると、龍麻はしばらくゆらゆらしていた。長い間眠っていたから、頭が冴えないのだろう。紫郎に聞いた所、今日は1月4日で、二人は約丸一日と半分、寝こけていたそうだ。
「みぶぅ…」
「なんだい」
「はら、へった…」
ひどい寝癖にとろんとした目で、龍麻が言った。こうしているとまるっきり子どもだ。甘ったれる様な声も、いつもは一蹴するのだが、今までの事を考えるとむしろ愛おしい。
「もうすぐご飯だよ。起きておいで」
「起こしてぇ〜…」
そう言いながら龍麻は再び布団に倒れ込んだ。身体が言う事を聞かないのだろう。やれやれと布団に近づこうとした瞬間、僕の脇をすり抜けて何かが龍麻めがけて飛んだ。
ぼこっ
「みぎゃっ」
「甘ったれるな小僧」
紫郎の煙草入れが龍麻の後頭部を直撃した。
「ぅう…全人類を救ったというのに…」
「テメーが好きでした事だろう。知った事か」
過激な発言をぽろりと口にして、紫郎は「とっとと起きねーと飯抜きだぞ」と龍麻を蹴飛ばした。のろのろと、腕で身体を支えながら龍麻が起き上がった。脇に落ちた煙草入れを拾って紫郎に差し出しす辺り、躾は行き届いているようだ(調教、とも言う)。
「からだ…重い…」
「そりゃな。しばらく我慢しろ」
猫背になってのたのたと歩く。不格好な様が痛ましく、壬生は思わず脇から支えた。そんな壬生を見て紫郎がいささか眉を寄せる。
「甘やかすな。図に乗る」
「もう乗ってますから」
さらっと返して、壬生はそのまま龍麻を支えて夕餉の席に向かった。
半分寝てる様な顔つきで(ちなみに頭の寝癖はそのままだ)龍麻はもそもそと食事をした。
「智代さん、これ塩きつい…」
「あれ申し訳ありませんでした」
「食い物に文句言うな」
塩鮭を差してぼそりと言うと、二方からすかさず答えが返った。智代、と呼ばれたのは例の壮年の女性だ。
壬生と紫郎は普通の米飯だが、龍麻が口にするのは粥だ。鮭や梅干し、高菜などをつまみながら、粥に落としてすする。しかしそれも咀嚼するのがしんどいのか、ひどくゆっくりとした箸の進みだ。
「ぅう…食べても食べても食べた気がしない…お腹空いてるのに…」
「仕方ねぇだろ、内蔵が動いてねーんだ」
揚げ出し豆腐にかぶり付きながら紫郎が返した。紫郎は傷はともかく体調はすっかり回復しているらしく、普通にぱかぱか食べている。
「飯のありがたさが身に染みるだろう。良い機会だ、ありがたがっとけ」
素っ気ない言葉に龍麻はうーうーと呻いた。結局、茶碗一杯の粥をなんとかすすり終えると、龍麻は「ねる…」と言って席を立った。
「ごちそうさまです智代さん…」
「滅相もございません」
平伏する智代をよそに、龍麻はふらふらと奥座敷に向かった。頼りない足付きに、壬生も挨拶して席を立つ。脇から支えると、龍麻が少し笑った気がした。
長い廊下を歩いて龍麻の寝所に戻る。布団の上に横たわると、龍麻は布団を被らず代わりに隣を手でぽんぽんと叩いた。
「何」
「一緒に寝てよ」
へにゃりと浮かべる締まりのない笑いは、見慣れたものであった。力はないがようやく「緋勇龍麻」が戻ってきた様な気がして、壬生はちょっと安堵する。
「嫌だよ」
そう思うとまた憎まれ口が先に出る。
「やだ、壬生君と一緒に寝るんだ」
口を尖らせて、ぐずる。一体君は何歳だよ、と言いたくなるのを押さえて、仕方ないと隣に横たわった。
「これでいいかい?」
「えへへ〜」
心底嬉しそうな顔をして、龍麻が壬生に腕を回した。
「布団被らないと風邪を引くよ」
そう言いながら壬生は布団と毛布を二人の身体に掛けた。
「あったかい…」
静かな声で、龍麻が言う。壬生の額に自分のそれを擦り寄せる。
やがて、二人は眠りに落ちた。
変な時間に寝たせいか、深夜を回った辺りで目が覚めた。
隣を見れば龍麻は壬生にしがみついたまますやすやと寝息を立てている。無邪気な寝顔に、いつもこうなら騒がしくないのにと壬生は思う。龍麻に絡めとられている身体を窮屈に動かし、龍麻と向き合う姿勢になる。
見慣れた顔をよく見ると、やはり少しやつれたようだった。そしてその気配は、今までと全く異なっていた。
勿論今までも非常に力強いものを感じていたが、今はそれが信じられない程に濃くなった。纏っている気の濃密な事といったら、こうして触れ合っていると息が詰まりそうなほどだった。おそらく陰の器が零した大地の気を器として受け入れ昇華させた結果、ダイレクトに龍脈と繋がる事になったのだろう。龍麻から感じるのはもはや人外と言っていいくらいに濃密で昏く深い気配だった。
これからどうなってしまうのだろう、そう壬生は思った。
こんな身体になってしまって。もはや後戻りは出来まい。龍麻がかつて望んでいた「普通」は、闘いが終わって一層遠のいてしまった。
ここまで濃い気は、抑えようとしても押さえきれるものではない。闇の世界を生きるもの達はそれに惹かれて容赦なく龍麻を襲うだろう。その程度で龍麻自身が命を落とすとは思えないが、しかし周辺の人間が巻き込まれでもしたらこの途方もなく優しい男は身が張り裂ける思いをする事になるのだろう。
そう想像しただけで、壬生の胸が痛んだ。
せめて自分が龍麻の助けになれたらいいのに、と思う。どうすればいいのか、想像もつかないのだけど。
龍麻を狙うのが人外とは限らない。御門が言っていた言葉を思い出す。「彼は、最高の駒なんですよ、こちら側の人間にとっては」そのどこか苦々しい口調をも思い出す。おそらく陰陽師の頭領として以上に、友として龍麻の身を案じていたのだろう。日本の裏に表に強い力をもつ御門の存在は、これから龍麻にとっては果たして助けとなるのだろうかそれとも障害となるのだろうか。
考え始めればきりがない。
深い溜め息をついて、龍麻の鼻先に口づけた。
翌日も龍麻は起きてこなかった。昼に一度起きてまた粥をすすると、ぱたりと寝てしまった。しかし先起きた時よりは歩みもしっかりしていて、急速に回復していっているのが分かった。
「回復というよりも、適合化だな」
昨日集めた薬草をすり鉢で擦りながら紫郎が言った。
ちなみに壬生も手伝わされている。摘んで来た草から泥や虫を丁寧に洗って落とす。紫郎は離れにこぢんまりとした作業場を持っていた。
「適合化?」
「身体と精神のバランスを作り替えているってわけだ。龍脈と繋がったせいで心身共にかなりの影響を受けているからな。それに適合できるようにバランスをとろうとしている。だから馬鹿みたいに寝る」
人間は睡眠中、覚醒している間に経験した諸々の事を整理編集しているのだそうだ。龍麻がやっていることはそれに近い。
「身体には問題はない。もともとそうなるように作られている身体だからな」
「作られている?」
壬生が聞き返した。紫郎はそれには答えず、しばらく薬草を擦っていた。
しばしの沈黙の後、紫郎は吐息と共に壬生を見た。
「お前、変な奴だな」
「あまり言われないですね、龍麻と違って」
しょっちゅう変だのおかしいだのと言われ続けてもはや平気の平左になってしまった恋人を思い出す。そう言えば自分も、最初に出会った時に龍麻に向かって「変だ」と言った気がする。
「緋勇のことをこんなに人に話すなんざ想像もしてなかった。流石、龍麻が選んだだけの事はあるな」
淡々とした口調だったが、それが相当な褒め言葉である事はわかった。壬生の頬がうっすらと赤くなる。
「そんな。買いかぶり過ぎです」
壬生の様子は気に留めないで、紫郎は説明を続けた。
「緋勇の血はそれそのものが特殊でな。その血筋にあるものは生まれながらにして気を読む。もちろん直系が一番強い。強力な気を受けるという事は、その受け皿となる肉体も相応のものを求められるという事だ。受け止められなければ、死ぬ。だからこの血筋では死産流産が多い」
すり鉢で擦っている草の様子を確認しながら、紫郎は続けた。
「俺の身体の事は知っているだろう?長い間慣らされてきた緋勇とは違い、加津葉の肉体はそこまで強くはない。本来産まれてこない筈だった俺だが、何の因果かは知らんが、産まれてきてしまった。強力な気を受ける肉体は耐えきれない、だから全身に封魔の印を刻まれた」
擦り終わった薬草は脇に避けられ、新しい鉢と薬草が用意された。
若い葉だけを摘み、それをすり鉢に入れてまた擦る。青臭い臭いが充満した。
「緋勇の血で、しかも当主と来ている。龍の血肉は、特別なのさ。俺たちとは違う。だからこそ黄龍の器としていれるんだ。常人ならば気が狂ってるさ」
柳生が連れていた陰の器を思い出す。白目をむき、口元を引き攣らせ、人でありながらもうその気配はなかった。龍麻の話によると、そもそも陰の器そのものが柳生がどうにかして星神をちょろまかしてでっち上げたもので、無理がある存在だったそうだ。紫郎の話と合わせて考えれば、気をおかしくしたのも当然だ。
「さて。さすがにそろそろ目が覚め始めてるんじゃねーか。行ってやんな」
外を見ればもう日は落ちて、夜の闇に覆われていた。
壬生は礼をして席を立つと、母屋に向かった。
紫郎の言葉の通り、龍麻は布団の中で目を開けていた。襖を開けて入ってきた壬生を見ると、頬を膨らませて睨む。
「なんだい」
「勝手にどっか行ったら、ヤだ」
子どもっぽい口調の奥に、どこか本気の響きがあるのを、壬生は敏感に感じ取った。あぁ、不安なのだ、と思う。
先の闘いも、先日の現象も、考えてみればそれは本当に恐ろしいもので、龍麻がこうして自我を失わないで生きている事がどんなにか幸福な事かと壬生は痛感した。
「…悪かったね」
いつものように冷たい言葉ではなく、哀しそうな響きで返した壬生に、寧ろ龍麻が驚く。壬生が龍麻の隣に座ると、龍麻はぺろんと布団を剥がして、「おいで」と言った。
素直に従い、並んで寝転がる。
外を歩いてきたせいですっかり冷えてしまった壬生の身体を、龍麻が抱きしめた。
「ひんやりして、気持ちいい」
笑いを含んだ声で、龍麻が言う。
「君は、あったかいね」
「ずーっと寝てたからな」
くすくすと笑いながら、龍麻は壬生の髪に口づけた。
「壬生君」
「なんだい」
「ありがとう」
壬生を抱きしめる腕に力が籠る。布越しに触れ合う肌から、龍麻の鼓動が響いてきて、壬生はひどく安堵感を覚えた。
「来てくれて、ありがとう」
「…うん」
壬生も龍麻の身体に腕を回した。強く抱き合えば、互いの温もりを実感できる。
生きている、と思う。
自分達は、生きている。
数々の闘いがあって、苦悩があって、それをくぐり抜けて、生き残っている。
訳もなく、壬生の頬を涙が伝った。龍麻に知られまいと龍麻の胸に顔を押し付けるが、龍麻にはあっさり見破られてしまう。顔を上げさせられ、口づけられた。
久々に感じる柔らかさに、壬生の涙はもっと溢れてしまった。泣きながら、壬生は深く深く龍麻を求めた。
「壬生君」
「うん」
「しよっか」
「…うん」
二人は互いの帯に手をかけた。
「ん…っく、ぁあ…」
ゆっくりと確かめ合うように触れ合って、確かめ合うように交わった。
いつもの快楽を追うセックスとは違う。龍麻の動きも壬生の動きも酷く緩慢で、意識と熱情の微妙な隙間に二人はいた。
「は、ぁん…たつ、ま…」
「くれは…」
名前を呼べば、口づけられた。
正面から貫かれ、優しく揺さぶられながら壬生は幾度もキスをねだった。
龍麻の固い掌が、壬生の身体を這う。身体についた細かい傷や筋肉の筋の一つ一つを辿り、なぞり、確認してゆく。
「う…あ、ぁあ……っく、ん」
奥をゆっくりと、抉られる。
「ん…っふ、く…ぁ、や……っ」
流されてしまうには小さく、無視するには大きすぎる波が、壬生を意地悪く翻弄する。びくびくと、内壁が震えるのを自分でも感じた。
少しずつではあるがしかし、確実に波は大きくなっていっていた。
「っひ、ん…あ、い…っ」
仰け反ると、期せずして弱い所にぶつかる。頭に熱がずきんと響く。
「ん……も…ぅ」
「そ…だね。俺も、そろそろ…」
苦笑しながら、龍麻が壬生にまた口づけた。唇が触れ合うだけのそれは暖かい。
「いっ、あ…やっ!…っふぅ」
壬生の一番感じる点を、龍麻がゆっくりと擦る。優しい動きが、少しずつ、浅くなってゆく。
「っん、あっ!…っく、やぁ…っ!」
漏れる声を抑えようと指を咬むが、龍麻はそれを引き剥がした。
「たくさん、鳴いてよ…」
「あ…ば、かぁ…っ!も…あっ、ぁあ!」
「くれは…」
「ひ、っく…ん、はぁあッ!ぁあッ!」
激しく痙攣しながら仰け反り、壬生は射精した。
「あーも〜…ようやくマトモに飯喰ってる感触…」
喜色満面で龍麻が大根を齧った。
「んまい〜んまい〜」
にこにこしながらご飯におかずに頬張る龍麻を見て、つい先ほど間の感傷がなんとなく壬生は馬鹿らしく思えてきた。この能天気さに大いに救われている事もまた、事実なのだが。
「いやー、飯が旨いって素晴らしいですね〜、紫郎さん」
「わかったから黙って喰え。うっせぇ」
冷たくあしらわれても、龍麻の笑みは止まらない。
「ったく…龍じゃなくて壬生を弟子にしたいぜ…」
沢庵を音を立てて齧りながら紫郎が言った。
「え〜ダメです、それはダメです」
ブリの照り焼きに箸を入れながら龍麻が抗議した。
「なんでだよ、コイツの方が、筋が良かったしな」
「筋!?なんの!?」
箸に取ろうとして、龍麻はブリの身を取り落とした。
「面倒な仕事も文句言わずに黙ってやるしな。どこぞの猿とは大違いだ」
若菜のおひたしを摘みながら、紫郎が意地悪い笑みを浮かべた。
龍麻はそれを聞いて壬生の方に身を乗り出した。
「仕事って!?壬生君何か手伝ったの!?」
「…仕事っていうか…薬草を摘んだり洗ったり…」
「だめーーっ!」
大声を上げる龍麻に壬生が面食らっていると、顔を真っ赤にして龍麻が紫郎に向かって怒鳴った。
「だめ!壬生君は俺のだから勝手に使っちゃだめ!!」
紫郎に食って掛かる龍麻を、壬生は呆然として眺める。俺のって…動物や道具じゃないんだからと、怒りよりも呆れが先立つ。子どもか、お前は。
一方の紫郎はさもおかしそうに、口の端をつり上げた。しかし無言で、龍麻には答えない。
「壬生君!」
無視を決め込んだ師匠にはさっさと見切りをつけて、龍麻は壬生をきっと睨んだ。
「明日!明日東京に帰ろう!朝イチで!」
「はぁ?何言ってるんだい、僕はともかく君はまだ…」
「いい!大丈夫!もう一晩寝たら全快するから全然平気!!」
必死になって壬生に言う龍麻に、紫郎が笑みを含んだ声で言った。
「妬くな、小僧」
龍麻の絶叫が島根の山奥に響いた。