夜の底を走る -2-




「来たか…」
龍麻のものでない声が広い部屋に静かに響く。
緋勇龍麻の身体の一部が、鱗に覆われている。黄金色の鱗、顔の半分が歪み獣のそれとなっている。漆黒の瞳が白目を失い深い碧色となり、両手は巨大なかぎ爪を生やしている。
人と龍の中間の姿で龍麻は、張られた結界の中にいた。
術者は真っ白い着物を着、結界の前に鎮座していた。龍麻と同じ漆黒の髪は乱雑に束ねられ、背中に流れている。ほっそりとした体つきだが溢れる気は並大抵のものではない。
その人物が低い声で唸った。
「帰れ」
壬生の方を見向きもせずに、言う。壬生は躊躇う事なく歩みを進め、結界のすぐ側までやってきた。
「聞こえんのか。帰れ」
「帰りません」
繰り返される命令に、壬生は冷たい声で応答した。その目線は結界の中で蹲る龍麻だけに注がれている。
「かえ…っ、て、くれ……」
か細い声が、龍麻の喉から絞り出された。
「嫌だよ」
そう言って壬生は術士のすぐ隣に座った。
「加津葉紫郎さん、ですね」
術士は答えず、鼻を鳴らした。両手は固く印を結び、全身から汗が吹き出ている。はだけられた前から晒が巻かれた身体が見える。わずかながらに除く素肌には、異様な文様がいくつも刺青されていた。
「龍麻」
壬生が目の前の恋人に声を掛けた。
「僕は、帰らないよ」
「だ…め、だ…ッ!」
苦しそうに、龍麻が床を爪で掻いた。床くらいやすやすと抉りそうなものだったが、結界のせいか傷はつかなかった。
「龍麻」
深く息を吸って、壬生は一息に告げた。

「僕には、愛している人間を捨て置く事なんかできない」

急に首根っこを掴まれ、凄まじい力で引きずられた。床に引き倒され後頭部を打ち付ける。喉元に熱い息がかかった。
龍麻が一瞬結界を破り、壬生の服を掴んで引きずり込んだのだと理解するのに若干時間がかかった。
人のものではない牙をもった龍麻の口が壬生の喉元に当てられている。壬生の首の皮を一枚傷付ける状態で、龍麻の顎は静止していた。
壬生の肩を抑える手が、震えている。
「龍麻」
壬生が名前を呼ぶと、龍麻は跳ね飛び狭い結界の隅に縮こまった。
龍麻の身体と結界が触れ合っているところが光を放ち、肉を焼く匂いがした。
「だめだ…だめ、だめだめだめ!!帰ってよ壬生君、帰ってよ!!」
子どものように龍麻が叫ぶ。異形のものとなった顔を必死で腕で覆い隠している。その片腕は赤く爛れている。壬生を引きずり込むために結界を破った時に、焼かれたのだろう。
右肩が焼けるように熱い。龍麻に押し倒された時にかぎ爪で突かれていたようだ。ずきずきと痛む肩を手で押さえながら、壬生は龍麻を見つめた。
「龍麻」
「やだ…やだよぅ、俺…壬生君を……」
「龍麻」
「やだ、やだやだやだ!帰ってくれよ大丈夫だから俺独りでも大丈夫だからどうにかするからお願いだから帰ってよ帰ってよ帰ってよ帰ってよ帰ってよ!!」
最後は悲鳴のような叫びを挙げる龍麻の腕を、壬生は思い切り掴んで結界の真ん中に引き戻した。
「壬生君!」
「帰るんだよ」
冷たく言い放つ壬生に、龍麻が一瞬泣きそうな顔を見せた。




「君と僕と一緒に」



「みんなのもとへ」





龍麻の目がきょとんと見開かれた。その瞬間、龍麻の身体を覆う鱗が全てとは言えないまでも、消えた。
「龍麻」
「…壬生君」
壬生が、龍麻の頬を撫でた。
「ッ!」
また、鱗が龍麻を浸食しようと震える。かぎ爪が大きくなり、牙がむき出される。
「龍麻」
「……ッ!」
「帰るんだよ、一緒に」
「…ぶ、くん…」
「うん」
「、まえ…なま、え…よん、で…」
「…うん」
蹲って泣きじゃくる龍麻の身体を、壬生は優しく抱えた。
頭を幾度撫でながら、名前を呼んだ。
「龍麻」
「龍麻」
「たつま」
世界で一番愛おしい響き。
「くれ、は…」
牙と爪を壬生に向けないように必死で自制する龍麻は、壬生の名を呼んだ。
「たつま」
「…くれは」

「たつま」











どれくらい経ったのだろう。
何日も経ったのかもしれないし一日しか経っていないのかもしれない。途中で眠りに落ちてしまったかもしれないし、起き続けていたかもしれない。朦朧とする意識の中で、壬生は龍麻の名を呼び続けていた。
呼び続けるだけでは間がもたないので、東京に帰ったら雑煮を食べようとか、如月さんの店に飾られている招き猫は実は数十万もするらしいよとか、周辺が落ち着いたら一緒に鎌倉か箱根あたりに遊びに行きたいねとか、横浜の中華街に美味しいお粥屋さんがあるらしいから食べにいこうとか、この間一緒に行った高田馬場の古本屋は雰囲気が良かったからまた一緒に行こうとか、そんな他愛もない語りかけを沢山した。その度に龍麻はうんうんと頷いて、泣きそうな顔でそれでもひどく嬉しそうに聞いていた。
時折力が暴走するのか壬生を攻撃し、爪や牙で傷を付けたりもした。壬生が傷つく度に龍麻は目からぼろぼろと涙を零し、ごめんごめんと謝った。壬生はそれを見て、それなら早く今の状態をどうにかして治してくれよ、と言った。一生懸命頷く龍麻の頭を撫でながら、それで早く東京に帰ろうと、壬生は囁いた。「うん」と、龍麻が頷いた。
そういうやりとりを繰り返しながら、しかし事態は徐々に収束していった。
最後、すっと細い金色の気が龍麻から立ち昇り、霧散して消えた。
その瞬間龍麻を覆っていた鱗のすべてが消え、龍麻はその場にばたりと倒れた。
同時に、壬生の意識も途切れた。

意識が戻ったとき、壬生は布団の中にいた。
障子からこぼれる日が眩しい。起き上がると頭がガンガン痛んだが、身体の傷の方は手当が施され痛みもほとんどなかった。喉や腕についたかさぶたが痒い。
しばらく上体を起こしていたら、頭痛も遠のいた。
ぼんやりと霞がかった頭が感じたのは、凄まじい空腹感だった。
「起きたか」
ぶっきらぼうな声が頭の上から響いた。顔を上げると、着流しを粋に着込んだ紫郎が立っていた。
「腹減っただろう。来な」
着流しの隅から見える刺青が赤くただれていた。おそらく龍麻を封じるために力を尽くしたのだろう。紫郎が人間にしてはあまりに強い力を宿していたがために全身に封魔の刺青を施されていることは、龍麻から聞いていた。そして、口調や長身に反して、実は女性であるという事も。
別の間に通されると、そこには既に食事の仕度が整っていた。塩分が控えられた食べやすそうな献立は、壬生の身体を気遣ってのことだろうか。
ぼんやり座っていると隣に先日壬生を引き止めた女性が座り、茶碗に粥をよそってくれた。
「早く喰いな」
紫郎はそう言うと、自分も箸を手に取って食べ始めた。
壬生も箸を手にし、一体何時間ぶりになるかも分からない食事を始めた。

「で、お前は誰だ」
綺麗さっぱり食べ尽くした後(紫郎の食欲も相当なものだった)、煙管に煙草を詰めながら紫郎が壬生をぎろりと見た。
「申し遅れました、壬生紅葉といいます。このたびは色々とご迷惑お掛けしました」
「へぇ、あの馬鹿のイロにしちゃ随分と礼儀正しいな」
喉の奥で笑って紫郎が煙草を吹かした。
太い柱に背中をもたれかからせて煙草を吸う様子は、いささか時代錯誤だと思ったが、しかし驚く程サマになっていた。
「俺の事は聞いてるな?」
「はい。師匠だと伺っています」
ついでに龍麻にとっては世界で唯一逆らえない人で、鬼とか魔神とか魔王とかなんとかそんな話もむにゃむにゃと。
「ふん。全く。恋人作っただけでも驚きだってのに…ここの住所は聞いていたのか」
「いえ、住所までは。桜ヶ丘病院の岩山たか子さんに伺いました」
岩山の名前に紫郎はぴくりと眉を動かした後、壬生の顔をまじまじと見た。
「全く、龍も因果な奴だね。あんだけ宿星から逃れたがっているのに逃れられないどころか、宿星に助けられてるんだからよ」
ふぅっと紫煙を吐き出した。
「龍麻は…」
ここ最近の龍麻の姿を思い浮かべながら、壬生は紫郎に言った。
「最近では、宿星を受け入れたようです。葛藤も…今はないようで」
「みたいだな」
煙草をぽんと火皿に戻すと、紫郎は壬生を見て少しだけ、笑みを浮かべた。
「お前、大した奴だな」
その言外に含まれる様々な意味を読み取って、壬生は柄にもなく赤面してしまった。

どうせ暇だろう、と言われ、壬生は何故か紫郎を手伝っていた。
「ここいらの山は只の山じゃなくてね、長い間緋勇の血筋が護り育ててきた山でな。普通じゃ手に入らないモンも、あっさり手に入る」
そう言いながら、色々な草を摘まされた。
壬生には馴染みの薄いものばかりだったが、しかしだからこそ紫郎の知識の豊富さにも圧倒された。
「これは何に使うんですか」
「商売道具だ」
にやりと笑ってはぐらかされた。
「どうしても聞きたかったら、黄昏に生きる覚悟をして出直して来な」
冗談とも本気ともつかない事を、平気で言う。龍麻から伝え聞く限りでは、紫郎はどうやら裏の世界にどっぷり浸かって生活しているらしい。「でもあの人はそうじゃなきゃ生きれない人なんだと思うよ、俺は」どこか寂しそうに師匠を回想する龍麻を見て、軽い嫉妬を覚えたのはそう以前の事ではない。
龍麻は緋勇の血を、その家も含めて激しく嫌っていたが、ごく一部の人間をいたく大切にしていた。その一人が紫郎だった。
血筋、両親、宿星と、龍麻はずっと強固に縛られてきた。その呪縛を解き放つ手助けをしたのが、紫郎だ。
黙々と薬草を採集し続ける紫郎の姿を見て、いつか感じた熱を再び感じる。
と、くるりと紫郎がこちらを向いた。
「妬くな、小僧」
驚いた拍子に顔が赤らんだのだろうか、紫郎が声を立てて笑った。
「安心しろ、あいつはお前しか見えてない」
その言葉に増々頬が熱くなるのを感じた。
「帰ってきた途端に、壬生君が来たら頼むから追い返して、だもんなぁ。久方ぶりに会った師匠への挨拶も抜きにな」
くっくっくっと笑う紫郎を見て、あぁきっとそのあと吹っ飛ばされただろうなと考えて、壬生は思考を散らした。