エテルネル -4-




「全く、入ってた予定が思いの外あっさり済んだもんだから、一緒に動植物園にでも行こうかと思ったら、市内に気配感じないんだもんね。その代わりに変なのがアト付けて来るし。何事かと思ったよ」
龍麻はにこやかに部屋に入り込んできた。背後で、激しい音を立てて扉が閉まる。不自然な閉まり方に、おおかた咒符でも使ったのだろうと壬生は思った。
プロテクターの男達が、素早く銃を構えるが、龍麻は一向に気にしない様子で部屋の中央まで歩いてきた。
「Stop! Don't move, or I shot it !」
大男が壬生を拘束しながら、銃を突き付けた。
「Ah huh ?」
龍麻はひょいっと肩をすくめて見せた。
「If you can?」
「Go!!」
男の怒声を合図に、プロテクターの男達が立ち塞がって龍麻を取り囲み、一斉に射撃する。
「龍麻!」
壬生が悲鳴を上げる。
が、次の瞬間、悲鳴を上げたのは男達だった。
放った銃弾の全ては、龍麻に触れる前に溶解して蒸発した。
龍麻の全身が金色に光り、髪が逆立つ。
その周辺は陽炎が立ち、灼熱が龍麻を守ったのだと知れた。
「Head! Shot head!」
「But...」
「SHOT!!」
銃口が、今度は頭部に向けられる。が、結果は変わらなかった。むしろ龍麻を覆う灼熱は一層燃え上がり、部屋全体が熱気に満ちあふれた。
「どけ」
壮絶な笑みを浮かべながら、龍麻が踏み出す。前進する龍麻とは反対に、男達はじりじりと後退してゆく。
「Dont't step back! Shooooot!」
壬生の頭に銃口を押し付けながら、男が叫ぶ。その命令に、男達は一瞬後退を止めた。が、龍麻は構わず目の前に立ち塞がる男の腕を掴んだ。
ジュワッ
嫌な臭いが部屋中に広がった。化学製品が焦げ、肉が灼ける臭いだ。
男の腕はプロテクターごと焼けただれ、白い骨がむき出しになった。
龍麻は腕を掴んで男を引き倒し、部屋の隅に軽々と放り投げた。壁に亀裂を作って、男はずるりと床に落ちた。落ちた男は動かない。呆然とする他の男を尻目に、龍麻は歩む。
「どけと、言ってるだろう」
にっこりと笑いながら、今度はやはり目の前に立つ男の頭を掴んで先程と同じように放り投げる。比較的小柄だったその男は、顔面を発火させながら悲鳴を上げた。
その絶叫を合図に、男達は銃を捨てて一目散に扉目指して走りだした。が、どんなに押しても引いても叩いても、扉は開こうとはしない。
龍麻は背後の狂乱には一切関知しない様子で、壬生に向かって歩み寄った。
「離せ」
微笑みを浮かべながら、しかし凍りついた瞳で龍麻が男に命じる。
「Stop!I...I,I sho...sh....」
声にならない声で、男が言う。壬生の側頭部に押し付けられた銃口が、がたがたと震えている。
「は・な・せ」
龍麻が、覆い被さるように身を屈める。瞳が金色に輝いている。
触れれば溶けてしまいそうな、熱さだ。陽炎のように揺れ動く怒りが見える。
男は、絶叫しながら龍麻に向かって闇雲に銃を撃った。
龍麻が、笑う。
溶けた銃弾が男の脚に落ち、音を立てて肉を焼く。悲鳴を上げる男の腕を掴み、龍麻は壬生から引き剥がした。
床に叩き付けられた男は、母国語と思われる言葉でなにがしかをまくしたてている。が、そんな言葉が龍麻の耳に一切入っていないのは、一目で分かった。
「俺の、紅葉を」
にぃっと、笑う。
「よくも」
燃える。
絶叫が、部屋中に響き渡る。男の体が、燃える。
火だるまになった男はのたうち回り、這いずりながら扉に向かう。部下である男達はその姿にまた悲鳴を上げる。男は何かを叫びながら、部下達に縋った。が、部下達にその助けを求めることは届かなかった。
恐怖のあまりに理性を喪失した部下達は、よってたかって男をめった打ちにした。脳漿が飛び散り、骨の折れる音が響く。
殴りつけられ、踏みつけられ、炎に包まれ、男が焦げた肉塊に成り果てるのに、そう時間はかからなかった。
動かなくなった男を、兵士達は肩で息をしながら眺め下ろした。
ゆらゆらと全員が示し合わせたかの様に龍麻の方を向く。プロテクターの下から、くぐもった笑い声が聞こえた。
不安定で低い笑い声は、徐々に大きくなっていた。声をあわせて盛大に笑いながら、男達はゆっくりと龍麻の方に向かって歩いてきた。
手足を赤く染めた男達が、笑いながらやって来るその光景は、男達の背後で黒焦げた死体よりもむしろ凄惨であった。
龍麻は自分目指して行進して来る男達に、にっこりと慈悲深そうに笑いかけた。
「お疲れ様」
龍麻の全身を、赤い炎が包む。揺らめき燃え立つそれは、優美と言ってもいいくらい、美しかった。
放たれた炎は鳳の如く舞い上がり、一直線に走った。炎は、男達の影を壁に焼き付けて、全てを消し去った。
影と焦げくさい臭いだけが、部屋に残った。



静寂が、訪れる。



壬生は必死になって呼吸を整えようとした。が、思うようにいかない。おかしい、どんなに人を殺しても乱れない呼吸が何故、震えるのか。
ゆっくりと振り向く龍麻を見て、何故安堵しないのか。何故こうも、鼓動が乱れるのか。
「紅葉」
目の前に、龍麻が跪く。
「紅葉」
伸ばされた指に、体が跳ねる。その拍子に手に引っかかっていた枷が外れ、ひどく大きな音を立てた。
「くれは……」
龍麻の目の奥に、光が走る。
あ、いけないと、壬生が焦燥する。
「ちが、たつ……」
「怖いか?」
真っ黒な瞳が、壬生を覗き込んで来る。
夜の闇の色だ。
紅葉が好きな、深い深い黒の色。
「紅葉は、俺が怖い?」
夜闇の向こうに、龍麻の心が沈んでいった。
壬生は違うと首を振る。そうじゃない、そうではない。しかし体が震え、声も出ない。
伸ばした指先を、龍麻は黙って引いた。
無言のまま、壬生をじっと見つめる。その目を見返しながら、壬生は何か言おうと必死で言葉を探す。
龍麻は何も言わず、顔色も変えない。無表情の龍麻を見るのは、これが初めてかもしれない。
龍麻はそう、いつも笑ったり怒ったり泣いたりしていて騒がしくて、もういい加減うるさいくらい騒がしくて、まるで子どもの様に無邪気で陽気で輝いていた。その龍麻の目が、いまガラス球のように虚ろで何も移していない。
水晶体に反射する自分の姿が見える。
口の端は切れて血が流れ、頬にはかすり傷が着いている。シャツははだけて背中の方は破れている。その切れ端には血が滲み、埃が一層汚らしくしている。
いつもは反射した姿など見えない。龍麻の目は本当に、彩光と瞳の境目が分からないくらい本当に真っ黒で、全ての光を呑み込んでしまう。常は見えない像が、まるで自分と龍麻の間を隔てる壁の様に思えて、壬生は恐ろしくなった。
「怖いか?」
響いた声の硬さに、壬生は増々動けなくなる。
「俺のこと、もう。……いらないか?」
龍麻の目の奥が潤む。
一筋の涙が、龍麻の頬を伝う。
一度こぼれた涙は止めどなく溢れ、龍麻の黒い目は涙に潤んで震えた。
大粒の涙が龍麻の頬を伝い顎から流れ落ち、床に染みを作る。
瞳の奥から溢れ出す哀しみに、壬生はむしろ驚きを覚えた。
声を殺して、ただ涙だけを流す泣き方は、いつもの駄々っ子のような泣き方と異なりすぎて、痛々しすぎて真っ直ぐ見返すことができない。
早くどうにかしないとと思うのに、呪縛のようだ。まるで身体が言う事を聞かない。解けろ、解けろと壬生は頭の中で叫ぶ。
「いやだ」
龍麻は力なくゆっくりと首を振った。涙が飛び散って、光る。
大きな体を折り曲げて、小さく震える龍麻に、壬生は触れようとして触れられない。
「やだ…やだ、いやだ……」
ゆらゆらと頭を振りながら、龍麻が泣く。悲鳴の様にも聞こえる、掠れた小さな声に、壬生の胸が痛んだ。
緩慢な動きで、しかし引きちぎりそうな力強さで、龍麻は自分の髪をかきむしる。立てられた爪が皮膚を抉るのではないかと、壬生は不安に思う。早く、止めてあげないと。
「やだ、いや…だ………」
縋るような声。爪先が、頬を、首筋をかきむしる。残された痕は爛れ、指先は皮膚を破った。
にじむ赤が鮮明で、壬生はまるで自分の肌が裂けていくかのような錯覚に陥った。全身を振るわせながらなく龍麻が、今にもどうにかなってしまうのではないかと、壬生の頭が真っ白になる。身体が、動かない。
早くしろ、と壬生は焦燥する。何ができるかなど分からないが、ともかく今自分は動かなくてはならない。
「お、おねがい、おねがい……ごめ、なさ…ごめんなさいごめんなさい、ごめん、さ…ごめんな、さい、もう……もうしない、しないからおねがい……」
震えて怯える姿は、今しがたの勇ましい姿とは全く異なる。
必死に声を抑え、抑えきれずしゃくり上げ、涙を隠そうとし隠しきれず、頬を目元をかきむしり、指先に、血が。



「くれ、は……すてな、でぇ……」
「龍麻!」



壬生は吐き出すように叫んで、呪縛を振りほどいて龍麻の体を抱き寄せた。
突然のことに、龍麻の体がびくりと震える。
「龍麻、龍麻龍麻龍麻」
名前を呼ぶ。他に言葉が浮ばない壬生は、ただひたすらに龍麻の名前を呼んだ。
「く、れ…は、くれ、は……」
しゃくりあげながら、龍麻が壬生の名前を呼ぶ。縮こまった体は小刻みに震えて、壬生の体に腕を回すこともしない。
その背中を、頭を、壬生は精一杯優しく撫でた。壬生の手が往復する度に、強張った龍麻の体から力が抜けてゆくのが分かった。
壬生の胸に額を押し付けて龍麻は、今度は声を上げて、泣いた。
「きらわ、ない、で……捨て、ない…でぇ………」
か細い声で、壬生に縋る。
縮こまる龍麻に、壬生は泣きそうになる。
「龍麻、龍麻…龍麻、ごめん。少し…驚いただけなんだ。だから」
怖がらないで、安心して。壬生は囁いて、龍麻の髪にキスを落とした。
幾度も口付け、抱きしめる。
抱きしめながら、壬生は今まで胸の奥底にあったつかえが、綺麗に消えてなくなってゆくのを感じた。
腕の中にある温もりは、確かに強くて、恐れを知らない生き物かもしれない。
自分などいなくても、生きていける生き物かもしれない。
それでも。
この強く愛しい生き物は、自分を、必要としてくれているのだろう。
壬生の口元に、自然と微笑みが浮んだ。
僕は馬鹿だな、と思う。
これだけ愛されていて、求められていて、踏み込むことを恐れていたなんて。
「好きだよ、龍麻……」
龍麻の耳元に、口付けながら囁く。
「愛してる」
それは、ごく自然に出てきた言葉だった。
壬生の言葉に、龍麻がようやく顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を見て、壬生が笑うと、ようやく龍麻も安心した表情を見せた。
「ごめんね、驚かせて」
壬生はそう言って、龍麻の頭を撫でた。気持ち良さそうに目を瞑る瞼に、そっと口づけると、龍麻がくすぐったそうに笑った。
その笑顔を見て、壬生はまた嬉しくなる。
「くれは」
「うん」
「好き。すっごく好き」
「うん」
壬生は笑いながら言葉を返す。
「僕もだよ」



壬生の背中は、龍麻によって癒された。
「魯班尺なんて持ってきてたんだね」
「うん、これないと人は治癒できないから」
消えてゆく傷に、龍麻はほっと安堵の溜め息をついた。多少傷跡は残るだろうが、もう痛みはないだろう。
「ところで、さっきから扉がガンガン叩かれてるんだけど」
龍麻が壬生の背中を癒している最中から、扉が幾度か叩かれ、爆発音のようなものも数度聞こえた。おそらく扉を開けようとしているのだろうが、龍麻が何かの術を施したのか頑として開こうとしない。
「うん。流石は御門特製。よく効くな」
しみじみと感心したように龍麻が呟く。効き過ぎだと壬生は内心思うが、その御陰でゆっくりできているのだから、口には出さない。
「紅葉♪」
うきうきとした声で、龍麻が壬生を抱き寄せる。
「はいはい、後でね」
言いながら、突き離しなどはしない。実は壬生も、少し龍麻に触れたい気分なのだ。正直扉の向こうにいる連中などどうでもいい。が、やはりそれで済むものではないので、二人は「さっさと片付ける」という結論に至った。
「あのねー、紅葉」
「なんだい」
「俺、もうしないって言ったけどね、本当はね、また結構酷いことするつもりなんだけど…」
不安そうな目で見てくる龍麻の顔を見て、壬生はくぃと首を傾げた。
「君の好きで良いよ」
「ほんと?」
「うん。別に僕は何かしたいことがあるわけじゃないし。君の好きで良いよ」
「嫌いにならない?」
「平気だって」
「ほんとにほんと?怖がらない?怖くない?」
一生懸命壬生に聞く龍麻が妙に愛おしく思えて、壬生は笑いながら龍麻の頬を手で包んだ。
「大丈夫。さっきは少し、驚いただけだから。絶対に、こんなことで嫌いになったりなんか、しない」
その言葉に安心したのか、龍麻はにこっと笑って壬生に軽くキスをした。
「じゃ、行こっか」
「あぁ」
二人は立ち上がると、扉に向かった。扉に貼られていた符を、龍麻が口の中で祝詞を唱えて、剥がす。
剥がした瞬間、凄まじい勢いで扉が開いた。扉の向こうには、案の定、男の仲間とおぼしき連中が立っていた。
先程と同じプロテクターを纏った者が十名余、その背後には医者と看護婦とおぼしき一団が見える。
それらを率いているのは、すらりとした長身の壮年の男だった。亜麻色の髪が波打ち、気品さえ感じさせる顔立ちだった。
「I'm very sorry to give great pains to your friend Kureha Mibu」
男は、先程の大男と同様、癖のない英語で、龍麻に向かって話しかけた。
「My name is Michel Leroy, the rabbi of the "the Dawn of Gold".
I needed your help,Mr.Hiyu,so I wanted to invite you.
However one of my staffs mistook and molested your friend.
Forgive me, Mr.Hiyu. We really don't want to do that.
We arrenge medical staff as you see for excuse」
男の言葉を聞きながら、龍麻は笑みを崩さないままだった。が、その笑みの奥には壮絶な怒りが潜んでいることを、壬生は肌で感じ取っていた。
男は龍麻に向かってにこりと笑った。大仰な微笑み方は、欧米特有のものだ。
「Then, do you know Yog-Sothoth?」
「Yes」
「Great」
龍麻の言葉に男はやや驚いた顔をして、すぐさま喜びを露にした。
壬生にも、聞き覚えがある名前だった。
「You also know "Life Tree"?」
「Of course」
「Oh, you're very clever」
男は満足げに頷き、両手を擦り合せた。
一方龍麻は軽く眉をしかめた。なにか思い当たる節でもあるのだろう。
「We think Yog-Sothoth is "Life Tree" in fact, so....」
「黙れ」
喜々として始められた説明を、龍麻は一蹴した。
突然日本語で話されて面食らう男を尻目に、龍麻はひぃっと口元を笑いの形にした
「下らない」
 細められた目が、うっすらと黄金色に輝きだす。
日本語がわからないのか、男が不審気な顔で龍麻に呼びかける。龍麻はそれに対して、八雲で答えた。
男の体は不自然な方向に折れ曲がり、空中で砕ける。
一瞬の出来事に、部下達も反応できない。
どさりと音がする。
呻き声とも悲鳴ともつかない声が、全身の骨を砕かれて形状をおかしくした男の口から漏れて、初めて状況を呑み込んだらしい。
医療班の看護婦からつんざくような悲鳴が上がり、男達は銃を構えた。
龍麻の全身はまた黄金色に包まれ、瞳が龍のそれに変わった。首筋に鱗が浮かび上がり、まばゆい程に輝く。口元が避け、真っ赤な舌が口元から覗いた。
怒りが力を呼び、力を龍麻を異形へと変えようとした。無論そこで異形に呑まれる龍麻ではない。存分に力が振るえるよう、解放された力を元に、結界を張る。
その姿に、禍々しさを通り越して神々しさすら壬生は感じた。
黄金色の獣。
誰にも邪魔されず、誰にも従わない。
自由な、光輝の中を進む孤高の獣。
誇り高く、美しい。
が、残念ながら他の人々にとってはそうではなかったらしい。プロテクターを纏った男達は一斉に発砲、しようとした。
しようとしたが、できなかった。
手にしていた銃が全て、溶け出したのだ。
灼熱にとかされた鉄は、プロテクターを無視して両手に熱を伝えた。銃は溶けながらも熱を高め、気泡を立てて沸騰した。プロテクターは耐えきれず燃えだし、幾人かはそのまま火だるまになって床に転げた。
男達はその熱さと有様に絶叫する。医療班も、恐怖に絶叫してパニックに陥った。
龍麻はそんな有様は一切気にせず、自らが骨を砕いた男に近づくと、首根っこを掴んで持ち上げた。
「身の程を、知るがいい」
その体に、螺旋抄を叩き込む。容赦ない攻撃は、砕かれた四肢を更に引き裂いた。
肉片となった男の全身が、辺りに飛び散る。
飛び散ったのは、扉に向かって殺到する敵陣の方向だ。手足や内臓が、血の雨となって男達や医療班の上に降る。
目の前に半分になった頭部と肝臓の破片が落ちてきた看護婦が、絹を裂くような悲鳴を上げた後、引き攣るような笑い声を上げた。
ヒステリックに笑いながら、女は医療用品が乗せられたワゴンから鋏を引っ掴み、隣にいた医者めがけて振り下ろした。
医者は何かを叫びながら避けるが、完全に気の違った女は、容赦なく医者に向かって刃を下ろす。他の男が止めようと飛びかかるが、腕を突き刺されて鮮血が飛ぶ。斬りつけられた男は、唸るように叫びながら看護婦に掴み掛かった。
あとは、阿鼻叫喚だった。
追いつめられて精神を壊した敵陣は、互いに互いを攻撃し始めた。
始めは止めようとしていた連中も、次第に誰を止めればいいのか分からなくなり、手当たり次第殴り蹴り踏みつけ斬りつけた。
じわじわと、床が赤黒く染まっていった。
歯の折れた口で女が笑い、ちぎれた腕で隣の男を殴る。落ちて割れた医薬品が混合されて嫌な臭いを発し、砕けたガラス片が人々の脚や顔を刻んだ。
悲鳴と笑い声が錯綜し、鈍い音が幾度も響く。
その有様を、二人は寄り添って壁際から眺めていた。
「俺は、狂ってるよ」
殺し合う人々を眺めながら、表情なく龍麻が言った。
「この怒りを鎮められるなら、この程度。どうとも思っていない」
酷く冷たい目をして人々を見る龍麻を見て、壬生は首を横に振った。
横に垂らされた龍麻の手に、自らのそれをそっと重ね合わせる。
「……正直に言うと、さっきは少し…怖かった。でもいまは…」
そこで言葉を切ると、壬生は目の前で繰り広げられる狂気の舞台を改めて眺めた。
看護婦の頭を掴んで、何回も何回も床に叩き付ける男。飛び散った脳漿を、けたたましく笑いながら床に這いつくばり舐める女。その女の上にワゴンを叩き付ける医者。
折れる骨の音、破れる皮膚と、床に広がり混ざってゆく鮮血。生き物から、肉へと変わってゆく身体。
身の毛もよだつような筈の光景に、壬生は一切恐怖を感じない。
それどころか
「いまは、嬉しいくらいなんだ」
龍麻は、壬生を見た。
「こんなに、君は僕を愛してくれてるんだな、って」
透き通った黒い瞳が、龍麻を真っ直ぐに見つめる。
「君が狂っているなら、きっと僕も狂ってるんだ」
「紅葉」
柔らかい髪の奥の、白い額に龍麻は口づけた。
「でも僕は、君が、好きだよ」
龍麻はそっと、壬生の肩を抱き寄せた。



地獄は、数十分で幕を閉じた。辺り一面血の海となり、ちぎれた体の一部がそこらに巻き散らかっている。幾人かにはまだ息があり、痛みに呻く声が途切れ途切れに聞こえる。
「巫炎」
龍麻はその血肉の山に近づくと、厳かな声で死を宣言した。
生き残っていた者も、龍麻の放った炎によって、燃えた。
命あるものは、壬生と龍麻の二人きりになった。
龍麻は壬生を連れて建物の中を移動した。行った先は監視室で、龍麻は監視カメラの制御装置をごぞごそ調べると、やがて二本のビデオテープを押収した。それには、龍麻が引き起こした惨劇の一部始終が収録されている筈だ。
監視室には壬生のコートとジャケットもあった。龍麻は壬生のぼろぼろになったシャツを脱がせると、自分のシャツを代わりに着せ(壬生は反対したが、今回も龍麻が頑として聞き入れなかった)、体裁を整えた。
そして二人は、帰路についた。



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