エテルネル -3-
「それ、何?」
「知らない」
翌朝、市場を二人は歩いていた。日本では目立つ長身も、ヨーロッパではそう目立ちはしない。二人はすんなりと環境になじんでいた。
壬生が野菜市場で買ってきた緑色の葉っぱ達を見て、龍麻が聞く。だが壬生もそれらの名前など知りはしない。
基本は一つ。
食べて死ぬ物は市場にはない。
……はず。
真っ赤に熟れたトマトもリンゴも買って、これでビタミン補給もばっちりだ。
「あ、いちじく」
「こっちにも売ってるんだね。食べる?」
「食べる」
龍麻は言うとすたすたと歩いていき、すぐさま四つのイチジクを買ってきた。
「美味しいかな」
「新鮮そうだけどね」
ビニール袋に乱雑に放り込まれたそれは、小振りながら皮の色は濃く、甘い芳香を放っていた。
活気ある市場を、特に目的もなくふらつく。さりとあらゆる商品が揃っている市場は、さながら屋外デパートのようで、見ていて飽きない。
しばらく歩いていると、市場の外れに行き当たった。公園の広場を利用して開かれているため、隅にいけばベンチもある。二人はペンキが剥げかかった空色のベンチに腰を下ろし、先程のイチジクを頬張った。
「お、なかなか」
「確かに」
少し柔らかくなっていたそれは、芯までしっかりと甘かった。
イチジクなんて久しぶりだなーと龍麻は頬張る。隣に目をやれば、壬生も赤と白の果肉に歯を立てていた。果汁が唇に付き、朝日の中ぬらりと光った。どこかエロティックな眺めに、朝っぱらから龍麻の体温が上昇する。
全く、猿かよ俺はと、苦笑する。
昨晩さんざん煽って追いつめて蕩かして、それでも満足できないのかと、情けなくなる。壬生にも呆れられただろうと思う。いつもはセックスした翌朝必ず不機嫌になる壬生が(照れ隠しだということを、龍麻は知っている)、今日はそんなそぶりも見せない。
「龍麻?」
鬱屈した気分になっているのを見抜いたのか、壬生が龍麻を見た。
「いや、なんでもない」
笑ってみせるが、うまく笑えなかったのだろうか。壬生は心配そうな顔を戻さない。逡巡した後、結局壬生は何も言わず、目を反らした。
やっぱり呆れられたかと、龍麻の内心が痛んだ時、腕に温かさを感じた。
壬生が、二人の間隔を詰めたのである。
触れ合っていなかった腕と腕が触れ合って、温かい。
驚いて壬生に再び目をやるが、本人は素知らぬ顔でイチジクを頬張っていた。よく見ると、頬が少しだけ赤い。壬生なりの、精一杯の励ましなのだろう。
龍麻の胸が、急に熱くなる。
ささやかなぬくもりを壊さないように、龍麻はそっと、イチジクに歯を当てた。
「それじゃ、僕はこれをホテルに置いて来るから」
イチジクを食べ終わり、肌寒い風を楽しんだ後、壬生は手にさげた袋を龍麻に見せて言った。 リンゴはともかく、他の野菜を持ち歩いて市内を移動する気にはなれない。どうせ龍麻には龍麻の用事があるだろうし、そうなると、自分はいないほうがいいだろうと壬生は判断した。
「でも」
「ホテルに行くくらい大丈夫。それに僕だって、英語くらいなら話せるし」
「ん……」
心配そうな表情を隠せない龍麻だったが、渋々頷いた。
後で合流できるように、龍麻と待ち合わせ場所と時間を決める。
壬生が予測していた通り、龍麻にはすでに予定が入ってるらしい。ポケットから地図を取り出すと目的地までの道を確認していた。確認し終わると、龍麻はその地図を壬生に手渡し、「迷ったらこれ見るんだぞ、番地と通りの名前がどっかに必ず書いてあるから」と噛んで含むように言い聞かせる。
「でもこれを渡したら君が」
「俺は平気」
わかんなくなったら聞くしと、龍麻は地図を壬生に押し付ける。
「大丈夫、僕もホテルに地図があるし」
「いや、こっちのが詳しい」
「そんなに面倒な所には行かないよ」
ひたすら心配をする龍麻に、壬生は苦笑を漏らした。全く、過保護にも程がある。
「いいから」
そう言うと、龍麻は壬生のコートのポケットに無理やり地図を突っ込んだ。仕方ないなと、壬生は龍麻の好きにさせる。壬生も頑固だが、龍麻はそれに輪をかけた頑固者なのだ。壬生が譲歩しない限り、言い合いはいつまでも続く。
「では、また」
「おぅ、気をつけるんだぞ」
相変わらず眉間に皺を寄せながら壬生を見る龍麻は、心配性だなと壬生はまた苦笑した。 ホテルへは迷わず戻れた。部屋の中の小さな冷蔵庫に野菜を入れ、ペットボトルからミネラルウォーターを一口飲む。さて、龍麻との待ち合わせまで、あとまだ三時間以上ある。正直、行くあてはない。
壬生はベットに腰掛けて、龍麻から借りた地図を開いた。地図に、Museumと書かれた建物をいくつか見つける。ここに行けば、楽しめるだろう。壬生は立ち上がると、ホテルを出た。 ホテルが面している通りを数メートル歩いたところだった。
黒のワンボックスがすっと壬生の脇に付けた。
不審を感じたのと同時に、一気に車内に引きずり込まれる。
拳を放つよりも先に、催涙ガスを至近距離で噴射された。咄嗟に目をつぶった瞬間、後頭部に鈍い衝撃を感じる。
そしてそのまま、視界は暗転した。
肌寒さを感じて、目を開けた。
開けた瞬間目に痛みが走り、またすぐ目を閉じる。そういえば催涙ガスを吹き付けられたな、と壬生はぼんやりしている頭で思い出した。至近距離で噴射されたにも関わらずそこまで苦痛を感じない事から、OCガスではないようだ。臭いからして、おそらくCSガスだろう。良かった、毒性は低いなと、ここまで考えた所で、壬生の頭はようやく覚醒した。一度醒めると、頭は急激にクリアになり身体の感覚も鋭敏になった。
両手足が拘束されているのが、動かさないでも分かる。後ろ手に拘束されおり、足は太腿にもベルトのような感触を感じる。もう一度目を開けると、灰色のコンクリートが目に入った。肌寒い理由はこれだろう。どうやらコートも脱がされ、シャツ一枚になっているようだ。
近くに、幾人か人の気配を感じる。拉致か、と思う。龍麻絡みか拳武館絡みか。壬生は相手の出方を待った。
「It's time you get up, right?」
癖のない発音を、耳が聞き取る。重たい足音が響き、何者かが近づいて来る。
ドゴッ
革靴が、腹にめり込んだ。背中を丸めて衝撃を緩和する。蹴られた勢いで壬生は半身を持ち上げ、自分を蹴り飛ばした張本人の顔を拝む。
アングロサクソン系の男が、下卑た笑いを浮かべて立っていた。絵に書いたような悪人面から、壬生はこれからの展開を大体予想し正直面倒くさいと思った。拷問への恐怖はあまりない。それよりも、どうせ下らないことを聞かれるのだろうと、嫌気がさした。
「You are Kureha Mibu, aren't you?」
「Right」
答える義理もないが、答えないのも面倒だ。下手な抵抗はしない方が、油断を誘える。
それよりも「これ」が誰の敵なのかを判断する必要があった。
部屋を見回すと、男の他に八人が部屋の隅に控えていた。が、全身をプロテクトアーマーで被っているせいで、人種の判断がつかない。男の英語も癖がなく、国籍が特定できない。おそらくそのために訓練したのだろうが。
ただ顔立ちから、比較的北の地域であることは予想できた。
「Good」
男がにたりと笑った。従順に見える壬生の態度に満足したのだろう。その目に光る、明らかに壬生を蔑むような光を、壬生は見逃さなかった。
「Then, when and where do you meet Tatsuma Hiyu?」
やはりか、と壬生は心中で嘆息する。どうせ龍麻の力を使って良からぬことを企んでいるのだろう。日本にいる女性陣ではなく、壬生を囮に選んだ点からすると、ある程度は下調べをしてたのだろう。
「Three o'clock at Bellevueplats」
嘘である。本当は一時に駅前中央広場で待ち合わせている。
なんであれ、龍麻を危険に晒すわけにはいかない。気絶した時間も含めて、あと二時間は待ち合わせまであるだろう。二時間、あれば場合によっては単独で状況を打破できる。
男は後ろを振り向いて口早に何か指示を出した。
素直な壬生の態度から、発言を疑わなかったようだ。騙しやすくて助かるなと、壬生は内心で笑う。
男は壬生の方をくるりと振り返ると、再び蔑んだような笑いを浮かべた。嫌な笑みだった。どこかで見た笑い方だなと思い、記憶を探る。そうか、八剣に似てるんだと思った次の瞬間、再び腹に衝撃がきた。
「Son of a bitch! You polluted important catalyst....」
憎々しげに男は言い、また壬生を蹴り上げた。衝撃を軽減するために巧みに身を捩ってきた壬生だが、三発目は胃に直撃し、口の中が酸っぱい液体でいっぱいになった。無理やり嚥下し、次の衝撃に耐える。
呻き声も上げない壬生に、男は不満を感じたのか一層表情を険しくした。足で蹴り上げて壬生の体を反転させ、頭を踏みつけ床にこすりつける。冷たく固いコンクリートの感触に、芸がないいたぶり方だなと壬生は思う。痛みには、慣れている。
背後で、聞き覚えがある音が聞こえた。あぁ、と思った瞬間、鋭い痛みが背中に走る。
「……っく」
さしもの壬生も、顔を歪める。漏れた苦痛の声に、男はにたりと嬉しそうに笑った。手に握られていたのは、乗馬用の細く長い鞭だった。
空気を切る甲高い音の後、また背中に痛みが走る。
「……っあ!」
早く、終われ。
壬生は顔を歪めながら思った。
知っている、自分は決して殺されない。餌だからだ。
知っている、こういう輩は、ある程度相手を痛めつけたら満足する。
だから、早く、終われ。
終わったらすぐに、反撃に出るから。
男が満足した後の算段を頭の中で組み立てながら、壬生は肌を切り裂く痛みに耐えた。
シャツがボロボロになり、むき出しになった背中を幾本もの紅い線が走っている。
滲んだ血が背中を伝う感触は、くすぐったくて気持ちが悪い。最早痛みは個々に感じられず、体全体が痺れるように痛んだ。
「ッ、ぐ……」
男の革靴が、背中の傷を踏みつける。痛んだ皮膚が裂ける。壬生は唇を噛んで声を堪えた。息を上げる壬生に、男は満足したのか踵を返した。
「You must have badonkadonk, pansy. This is suiting to you !」
男は鞭の柄で壬生の腰をしたたかに打つと、高笑いを上げて去っていった。
扉の閉まる音を聞いて、壬生は嘆息した。痛む体をずらし、壁側に背中が向くように体勢を入れ替える。
プロテクターを纏った男達はまだ部屋にいる。全員、自動小銃を安全装置を解除した状態で構えていた。太腿への拘束も考えると、壬生の戦闘能力の高さも調査済みなのだろう。
壬生はそっと体を折り曲げる。端からは痛みに耐えているように見えるだろう。指先でそっと靴底を探る。踵の部分から、壬生は細いが固い針金を引き出した。
拳武館の暗殺組を、舐めないでもらえるかなと、壬生は口の端で笑う。
卒業をしても、暗殺組は活動をやめることはない。生涯現役、というのも変な言い方だが、一度闇に浸った者がそこから抜け出すことはない。あるとすればそれは、死によってのみあがなわれる。
現在壬生は、鳴瀧の後継となるべく暗殺術以外の外交術などについて学んでいるために、現場からは離れている。しかしだからといって、壬生が日々身に降り掛かるであろう危険を回避する対策を講じていない訳ではない。むしろ、鳴瀧が壬生に徒手空拳陰の免許を皆伝し、事実上の後継者として目されるようになった時点で、以前よりも一層日々の警戒態勢は高まっている。
指先で手錠を探る。全ては静かに、指先の筋肉のみで行う。男達からはただじっとしているようにしか見えない筈だ。
幸いなことに、手錠そのものは頑丈だったが鍵の作りは簡単なものだった。これならば、時間さえ掛ければ解錠できる。
問題は音が聞こえないかだ。壬生はわざと呼吸を荒くし、時折呻き声を漏らした。傷からすれば、不自然な事ではない。
「Who...are you? What organaization do you belong to ?」
答えないと分かっていながら、敢えて男達に声を掛ける。少しでも気をそらしてもらえたら、それでいい。針金から伝わる感触で、鍵の構造がおおまかに頭に入る。シリンダー式のよくある構造、外すポイントも把握する。
「...Tatsuma, he never join for you. He goes by only his will」
壬生の声と重なって、カチリと小さな音がした。男達は気付いていない。手錠が落ちないように、慎重に手足を動かす。まるで、固い床のせいで痛む体を、ずらすかのように。
針金を持った手が、今度は足枷に伸びる。鍵穴を探り、見つけた穴に針金を差し込む。おそらく、手錠と同じ構造だろうと踏む。
男達の視線の先を見極めながら、壬生はゆっくりと鍵穴を探る。ここでバレたら、一巻の終わりだ。彼らは、壬生が生きている状態を維持したいに過ぎない。つまり、生きてさえいれば良いのだ。場合によっては手足を砕かれるだろう。それだけは、壬生としても避けたかった。
ゆっくりと、解錠のためのプロセスを辿る。
「What do you want to do? What is your request?」
カチリ
外れた。
あとは、太腿のベルトである。溜め息をつきながら首を折り、さも無視され続けていることを悲しむかのような様子を装いながら、ベルトを確認する。残念なことに、ベルトの留め金は背後ではなく前寄りにある。革製で頑丈そうに見え、勢いを付けても引きちぎることは困難だろう。枷は外したが、これを自由にしないかぎり勝ちはない。
さてどうしたものかと壬生が考え込んで数瞬、突然凄まじい勢いで扉が開いた。
驚き思わず扉を見る。
「Shit! Mo fo!!」
先程の男が凄まじい勢いで入ってきた。壬生は慌てて、だがそっと針金を靴底に戻し、手枷足枷に手足を押し付けて、枷がずれないようにした。
男は壬生の顔面を蹴り上げると、立て続けに腹を二三度蹴り付けた。
「ガッ……!は、ぁ!」
腹筋を固くして衝撃を弱めるが、痛みは鈍く重い。思い切り頭を踏みつけられ、脳震盪を起こしかける。男は何か口汚く罵りながら襟口を掴んで、壬生の体を引きずり上げた。
男が何か壬生に言おうとした瞬間、妙に間延びした声が部屋に響いた。
「やぁ、壬生君。こんなとこにいたんだ」
男の肩越しに、極めて穏やかな笑顔を浮かべた龍麻が見えた。