12
「ん……」
「…おはよう、九龍君」
なまぬるい暖かさの中で九龍は目覚めた。
朦朧とする頭は自分を包むオレンジ色の光と、取り巻く温もりしか理解してくれない。再び目を瞑り、しばらく深呼吸を繰り返すとようやく頭にかかった霧が遠のいてくれた。
「かま…ち、くん…?」
絞り出した声はしわがれていて、喉がひりひりと痛んだ。何故だろう、とぼんやり考えていると、頬に柔らかい感触がして、「おはよう」と、もう一度言われた。
軽く身動きをすると、ぱしゃりと水音がした。そこでようやく、自分が風呂に入っている事に気付いた。
「……?」
どうやら、取手に後ろから抱えられた状態で浴槽に浸かっているらしい。浅いユニットバスの浴槽の中、男二人窮屈だ。
「わ」
若干慌てて手足をばたつかせる九龍を、取手は後ろから強く抱きしめた。
「暴れないで」
耳元で囁かれる掠れた声に、九龍の身体が震える。つい先程までの色々な事を思い出して、このまま消え入ってしまいたいくらい羞恥を感じた。
真っ赤になって俯いてしまった九龍のこめかみに、取手はそっと口付けを落とした。
「九龍君…」
「か、…かま……ち、く…ん」
名前を呼ぶと、名前で返された。
「えっと!あ、あの…!」
急に九龍は振り向くと、取手の首にしがみ付いた。浴槽いっぱいの水が揺れて飛沫が散る。
必死の形相で取手を覗き込む九龍の頬に手を当てて、取手は優しく微笑んだ。
「か、かまちくん…」
「なんだい?九龍君」
「あ、あの…」
そこまで言うと、九龍は黙り込んでまた項垂れてしまった。その頭を取手はゆっくりと撫でた。なだめるように。なぐさめるように。
随分の間、頼り気なく揺れる水面を眺めていた九龍だったが、ようやく掠れた声を思慕しだした。
「しん…じ、て……いいんですか…?」
項垂れたまま、水面に向かって放たれた言葉に力はなく、声はかすかに震えていた。取手は意味を図りかねてまた幾度か九龍の頭を撫でた。
「かまち君を…信じても……いいんですか…?」
「何を言いたいのか、よく解らないな」
平静な取手の声に、九龍はばっと顔を上げて取手に縋った。
「僕を置いていきませんか僕を独りにしませんか本当に僕を僕だけを好きでいてくれますか突然消えたり飽きたり見捨てたり……き…」
九龍の唇がわななき、涙が頬を伝った。
「きらいに…な、ったり……しません、か…?」
取手の大きな掌が九龍の頬を包み込んで、そのまま唇と唇を重ねた。柔らかな感触が九龍の心を慰める。
「僕は…」
目に涙を浮かべたまま九龍が取手に言った。
「僕は…両親ですら愛してはくれなかった…こんな僕を…なんで……どうして好きになったりしたんです?なんで……こんな…何の取り得もないつまらない人間をかまち君は好きだなんて言ってくれるんですか?」
言いながら九龍はどんどん項垂れて、仕舞いには鼻先が湯に着くほどにまで項垂れてしまった。
「僕なんか……かまち君が好きになる価値なんて全然ないのに…。好きになっちゃいけないのに……なんで好きだなんて言うんですか?なんで僕を孤独の中に置いておいてくれなかったんですか?そのまま置いておいてくれたら…」
「孤独も知らないで死んでいけたのに……」
「君は、死にたいのかい?」
低い静かな声が九龍を包んだ。
泣き濡れた顔を上げると、細く長い指先が九龍の首に絡んできた。
妙に冷たい体温が次第に喉を締め上げてゆくのを感じ、九龍は静かに微笑んだ。
呼吸が細くなり、鼓動が激しくなる。それを心地良いと思った。
気管が押しつぶされ、心臓がガンガンと脈打ち、目の前がやがてうっすらと赤く染まり始めた途端に、指は九龍の喉を離れた。
急に酸素が全身をめぐり、九龍は激しく咳き込んだ。その肩を取手が鋭い強さで掴んだ。
「許さないよ」
怒気を孕んだ声に、九龍が慌てて取手を見る。
涙に濡れた九龍の瞳を覗き込むその目は、昏い光に満たされ、それはまるで今まさに手にした心臓を食らわんとする悪魔のようだった。
「僕に無断で死ぬなんて、許さない」
声の静けさに、九龍は震えた。
「君は、僕のものだよ」
にぃっと、取手が笑った。
「絶対に、離さない」
あぁ、この震えこそ生きる喜びなのだと九龍は思い、悪魔と契約するべく、その薄い唇に自らのそれを重ねた。
「さっきは…ごめんね」
全身くまなく、いらんほどにくまなく洗われた九龍は、壊れ物のようにベッドに運ばれて横たえられた。まだ湿る髪の毛を撫で付けながら、取手が申し訳なさそうに九龍に言った。
「苦しかっただろう…?」
首筋を撫でながら囁かれた取手の言葉に、九龍は微笑みながら首を振った。
「気にしないで下さい、かまち君」
その言葉に、取手が九龍に顔を近づけ優しく囁いた。
「…君が、いけないんだよ?」
「はい」
「君は…つまらない人間なんかじゃないんだからね」
「はい」
「僕は…君が、葉佩九龍が好きなんだからね」
「…はい」
最後の言葉に、九龍ははにかんで頷いた。くすぐったそうなその顔に、取手は軽く唇を落とした。九龍の頬が赤く染まり、嬉しそうに取手を見上げた。
自分を一切省みなかった両親の事も、今も尚この人生を縛り続ける古い血統の事も、孤独と絶望ばかりの幼少の記憶も、今の九龍にとってはもはや遠い出来事だった。正直まだ取手が自分を好きであるということについて充分な納得は感じていない。
両親ですら愛してはくれなかった自分をどうして赤の他人が愛してくれるというのだろう?
しかし、それを信じようと九龍は思った。長い間求め続けた光を、手に入る事はないと思っていた光を、ひょっとしたら自分は今掴みかけているのかもしれないのだ。
かつて龍麻が自分に言った言葉を思い出す。
必ずどこかに、九龍を心から愛し九龍が心から愛する人間がいるはずだ、と。そしてもしもそんな人間に出会ったならば、何を犠牲にしてでもそれを護らなくてはならないのだ、と。
「好きだよ、九龍君…」
取手の囁きに、九龍は口付けで答えた。例え一時の慰めだったとしても、自分はこの光を精一杯愛するのだと、心に固く誓いながら。