重なる -10-
その後の壬生紅葉の半月は、それなりに急からしい半月だった。
龍麻から預かった本を鞄から引っ張りだしてみれば、そこに書かれていたのは『徒手空拳陽 秘伝書』。滅多な事では驚かない壬生が、本気で腰を抜かして、本を手にしたまま思わず部屋を徘徊してしまった。
(ひ、秘伝書って…門外不出だろう、普通………なんで僕が……いや、僕はこれでも一応表裏なわけだし……でもこんなもの借りてしまって…いいのか?…いやでも彼はもう後継者な訳だからこういうことも…ってそんなまさか)
なんでこんなに動揺しなくてはいけないんだと最後には腹立たしい思いがしてきて、壬生は綺麗に片付いた机の上にその秘伝書を置いた。椅子に座って腕組みしてしばし睨みつけた後、思い切って開いてみた。ところ。
「読めるかっ!」
平手で突っ込みを入れそうになったところをぎりぎりで踏みとどまった壬生は、これら全て緋勇龍麻の狂言ではないかとまで思った。そこに書かれていたのは、みみずがのたうちまわったような超達筆、時代の香りプンプンな毛筆による文章だった。一般の高校生よりも大人びてはいるが、それでもしかしあくまでも高校生である壬生に、すらすらと読める筈もなかった。
何度か深呼吸し、龍麻の真剣な表情を思い出し、とにかく壬生は自力でこれの「解読」にあたることを決意した。
決意はしたがそう簡単に読み進められるものでもない。高校生という本業もある壬生は最近任務で遅れがちになっていた学習を取り戻すべく、昼は足繁く図書館に向かった。夜は机に向かって文書の線をノートに書き写して解読、その合間に鳴瀧から呼び出されて、何の意図があるかは知らないが、何故か播磨国に出没した妖怪についての調査を依頼され、仕方なくまた図書館に篭って、と気がついたら既に半月が過ぎていた。
解読はかなり進み、まだ通して読んでいないため内容についてはまだ深く検討していないが、しかし龍麻を信じてここに書かれている事を鵜呑みにするとしたらそれは壬生にとってかなりとんでもない事になる事は知れた。
早くこれを通して読んで考えて、そうしたら年末の大掃除をそろそろ始めて、あと正月に向けて料理をまとめて作って冷凍して、などと思いながら壬生は若干げっそりした。おそらく年末年始は鳴瀧の護衛で手一杯だろうし、今のうちにやれることはやっておかないとと思うが、しかし計画は溜まるばかりでなかなか消化できない。もともと几帳面すぎる性格の壬生は計画通りに運ばないこのごろの生活に苛立を感じていた。
だが壬生はその苛立の原因が単に思い通りに行かない日常のみにあるのではないことをよく自覚していた。龍麻に渡された書に書かれていた事は、少なからず壬生を動揺させ困惑させた。鳴滝に相談するのもなんとなく気が引けて、壬生は一人悶々と悩んでいた。
そもそもこの秘伝書は本物なのか?本物だとして書かれている事は事実なのか?あるいは事実かどうか確認する手だては果たして存在するのか?もし存在したとして、自分はその確認手段を信じる事が出来るのか?
結局のところは、「緋勇龍麻を信じるか否か」に落ち着くのである。龍麻を信用するかどうかなんて、そんな事が判断できるか、と壬生は苛立つ。その一方で、もはや本心の半分は彼の言い分を信じてしまっていることを自覚して、それでなお一層腹が立つ。こんな奇妙奇天烈な話をどうして自分はあっさり信じてしまうのだろう。いやまだ信じてはいないが、しかしそれにしても、信じようと、思うのだろう。
材料が少ない。
壬生は溜め息をついた。緋勇龍麻についても、この書についても。
一方壬生に書を渡してからの緋勇龍麻の半月は、なんの変化もなく流れて行く日常だった。
穏やかに流れた半月ほどの内に龍麻がした事は、切れかけていたアプリコットティーとブドウ緑茶の追加、年末に向けて保存食の確保(大量のコロッケと餃子、ハンバーグを作っては冷凍庫へ突っ込む作業)、かねてから欲しかったショルダー(プリントされたホルンのマークが気に入った)の購入。相変わらず、人とは関わらないでマイペースに過ごしていた。
気がつくともうクリスマスがそこまで迫ってきていた。あと二週間で冬休みだ。今年の年末は師匠は帰ってくるのだろうかと思いつつ、お節は流石に作らなくてもドつかれないよなと、自分で自分を納得させた。龍麻以上に食べる事が大好きな師匠は、あれやこれやに一々うるさい。最もその御陰でここ数年で料理の腕はかなり上達したが。
ミルやら調味料やらで多少散らかった台所で、龍麻はお湯が沸くのをぼーっと待っていた。それから今日学校で知り合った二人の同級生の事を思い出す。青葉さとみと比嘉焚実。「さとみ」「たくみ」ってなんかのコンビみたいだなと思いつつ、また関わりを作ってしまったと少し後悔した。いつもならやらないような親切をしてしまった。さとみを見て、何故か無性に懐かしい気持ちになったのだ。時々そうなる。黒くて長い髪。優しい目の色。記憶の遠くに残っている、瞼の裏に焼き付いている。本当は、それが誰か分かっているのかもしれない。しかし記憶がはっきりとした形を取る事はなかった。
幼少の頃から様々な事に巻き込まれてきた龍麻は、知らないうちに「目立たない」「関わらない」を学んでいた。学校でも、本気を出せば学年一位は余裕で取れる文系科目は適当に力を抜いて、ちょっと真剣にやらないととんでもない成績を取る理系科目はそれなりに頑張って、常に中間の「普通」の成績を維持してきた。長い髪で表情を隠し、孤立する訳でも仲良くなる訳でもなく、周辺とは常に一定の距離をとってきた。こんな特徴のない人間に好き好んで立ち入ってくる者は少ない。だから龍麻が一人暮らしをしている事を知っている生徒も、読書と料理と文房具収集と放浪が趣味な事を知っている生徒も、一人もいなかった。
それを孤独と思った事はないし、龍麻にとってはそれが普通だった。
しかしやはり、心のどこかで寂しいとでも思っているのだろうか。関わってしまった。壬生と同じだ。何故だろう、最近の自分はどうもおかしい気がする。それともこれがなんらかの「異変」の始まりなのだろうか。自分が巻き込まれる事については構わない。寧ろ漸くかと、血湧き肉踊るような心持ちすらある。しかしその結果関係ない人間を巻き込むのは、まっぴらだった。
水蒸気を吹き上げる赤いケトルをコンロから下ろす。暖めておいたマグに茶葉とストレーナーをセットし、勢い良く注いだ。今日はダージリンのセカンドフラッシュをストレートで。柔らかなマスカットフレーバーにでも包まれて、少しのんびりしたい気分だった。
ソファに腰掛け料理雑誌をめくりながら頭をよぎるのは、壬生紅葉のことだ。彼は今どうしているのだろうか。龍麻は今更ながら壬生にかの書を渡した事を後悔していた。勿論、自分の判断は自分の信念に照らし合わせると正しい。しかし壬生は一体どう思っただろう。あれは一般の高校生がすらすらと読める代物ではないが、流石にそろそろ読み終えている頃だろう。壬生は、一体、どう思っただろう。
龍麻がその秘伝書に触れたのは随分と以前の事だった。自分の事が知りたくて、入る事を祖父に禁じられていた蔵に忍び込み、様々な書物を漁った。どれが重要でどれが重要でないのか皆目見当もつかなかったが、この書の題名だけははっきりと読み取れて、尚かつ重大な事が書かれている事は予想できた。こっそり持ち出して、長い時間をかけて読み解いた。読み解いた先に感じたのは、不審でも疑問でもなく、納得だった。
今まで自分に関して抱いていた諸々の疑問が、氷解した瞬間だった。
しかし、壬生はどうだろう。わからない。それに、護りたい存在があると言っていた。龍麻がした事は壬生を巻き込む事には違いなく、そしてその結果壬生の「護りたい存在」を傷付ける事になることもまた、間違いのない事だった。
また鬱屈とした気分になってきたのを、龍麻は手元の雑誌に集中する事で紛らわせようとした。そんなこと、到底出来ないのだけども。
翌日もまた、龍麻の初めての友人達は龍麻に積極的に話しかけてきた。
今までまともな人付き合いをしてこなかった龍麻は、近寄ってくる人間を邪見にする手管すらまともに持ち合わせていなかった。それに昨日あれだけ関わるまいと決心したくせに、いざ本人達の無邪気な笑顔を目にすると、冷たい言葉の一つも出てこなかった。かといって友好的な態度を取れる訳でもなかったのだが、しかし両人共に気にした様子もなく、それどころか、あからさまに人付き合いが苦手そうな龍麻を見て「放っておけない」とでも思ったのか、態度も言葉も増々優しく暖かくなっていった。龍麻は戸惑って、一層突き放す機会を逸する。
ただ気になるのはまた新たに出会った莎草という男子生徒だった。不穏な気の流れを、龍麻は敏感に察知していた。その言動からも、莎草が「狂う」素質を持っている事は知れた。なるべく関わらないようにと二人に忠告はしたが、しかしそれは無駄だろうとも思っていた。災厄とは向こうから近寄ってくるから災厄というのだ。おかしな気を纏う者が近くに居る限り、そして多少なりとも関係を持ってしまった限り、龍麻は二人を護りきろうと決意した。そして、莎草についてなんらかの結論が得られたら、すぐさまここを去ろう、とも。
こうなったのはやはり自分の背負う宿命のせいなのだろう。自分はどうも、異形から愛されているらしい。
龍麻は深々と溜め息をついた。あぁ、関わったしまった巻き込んでしまった。
一瞬深く後悔した後、龍麻は首を振って考えを改めた。とにかくその前に、莎草が「狂わ」ないようにしなくては。自分がどれほどの事が出来るかは知らないが、しかし、努力だけはする価値があるだろう。莎草の事は別に好きでもなんでもないがしかし、どんな人であれ、人は人のままでいるべきなのだ。
事態は動いた。
予想していたよりも急速な展開に、龍麻は自分の腑抜け具合を思って歯噛みした。紫郎に鍛錬されながら各地を巡っている頃には、もっと迅速に対応ができたはずだ。二年近くなる平和な環境での生活が、危機に対する警戒感を鈍らせていたのだろう。
「っくしょう!」
比嘉が拳を握りしめるのを、龍麻は直視できなかった。
「焚実」
俯き加減のまま龍麻はおずおずと声を掛けた。
「俺が、行くから。焚実は」
「おい、何言ってるんだ!俺も行くからな!」
どこへ行くべきかはまだ知らない。莎草はどこにいるのだろう。龍麻は気を探ったが、今現在探査できる範囲の内には莎草はいなかった。おそらく学校の外の、人気のない場所にいるのだろう。龍麻は学校周辺の地理データを記憶から引き出し、該当する数カ所に見当をつけた。
「焚実、これは…」
普通の人間が関わっていい領域じゃないんだ、と言おうとしたが、それは莎草の手下に声によって中断された。
「お前ら、青葉さとみの居場所を知りたいなら、着いてくるんだな」
龍麻はそっと目を閉じた。
闘いが、始まる。