重なる -6-




壬生は突如本来の任務を外されて戸惑っていた。しかも護衛などという本来の自分から考えると実に不似合いな任務につかされる事を知って増々困惑した。前回の自分の仕事に何か不備でもあったのだろうかと思い返しもしたが、壬生に対して説明を行う鳴瀧の様子を見てどうやらそうではないらしいと考え直した。
今回狙われているのはなかなか特殊な事情を抱えている人間のようで、しかも鳴瀧が後見人として面倒を見ているそうだ。もう一つ秘密があるんだよと拳武館の主は目を細めたが、それはその場では明かされなかった。
大事な人間だからこそ、信用の置ける人物に任せたかったのだろうと壬生は踏んだ。壬生の忠誠心については他ならない壬生本人が今まで身を以て証明してきたし、実際鳴瀧に逆らおうなどと一度も考えた事はなかった。その様を「犬」呼ばわりする人間もいたが、言いたい奴にはいわせておけば良かった。
壬生には揺るがないものがあったから、支えもなくふらふらと目先の瘤を攻撃する人間の矮小さに一々付き合う気はなかった。
鳴瀧が自分を信用してくれているのだ、と思うと壬生は高揚した。
今まで精一杯にやれる事をやってきたつもりだが、こうして鳴瀧がある意味あからさまな信頼を見せてくれたのはこれが初めてだった。他の生徒の手前、贔屓をする事はあり得なかったしそれは壬生の望むところでもなかったが、しかしこうしていざ特別扱いされてみると実に快かった。
今回の任務は必ず完遂する、と壬生は心に誓った。
そうして壬生に引き合わされたのは

「紅葉、彼が緋勇龍麻だ」

他でもない。新宿中央公園の彼、であった。
重なる偶然に内心瞠目する。一方きっと取り乱すだろうと思った少年、緋勇龍麻は意外なことに表情をぴくりとも変えないで壬生を見返してきた。自分の事を忘れたのかとも思ったが、しかし昨日の今日でそんなこともあるまいと考え直す。どうやら彼は、壬生が思っていた程油断ある人間ではないようだ。
対峙し合う二人の間にどんなささやかな出会いと葛藤があったかなど鳴瀧は毛の先ほども思わないまま、二人を互いに紹介した。護衛は陰ながら行われるため、壬生が龍麻に直接会う機会はそうはないかも知れないがしかしこうしてわざわざ引き合わせたのには理由があると、鳴瀧は厳粛に告げた。
「龍麻は徒手空拳陽の継承者で、紅葉は徒手空拳陰の継承者だ。…紅葉に関してはまだ正式な決定を見ていないがね」
壬生はまだ免許を皆伝していなかった。免許皆伝は即ち鳴瀧の跡を継ぐという意味であり、陰の継承者として正式に認められるという事でもあった。当然免許皆伝はまだしていない。しかし壬生がそれを受けるという事はもはや公然の秘密で、壬生自身も鳴瀧本人からその心づもりは聞いていた。
気になったのは、それを聞いた瞬間龍麻の表情が若干苦々しい物に変化した事だった。
「二人は表裏の龍ということになる。これを機に是非親交を深めてくれ」
鳴瀧の言葉に二人は無言で頭を下げると、同時に退出した。
館長室の重厚な扉が静かに閉ざされ、二人揃って放課後のしんとした廊下に出る。二人はどちらということもなく歩き出した。階段を下り、正面玄関が近くなった時、壬生は不意に龍麻に声を掛けた。
「クッキー、ありがとう」
壬生の数歩前を歩いていた龍麻の頬がさっと赤みを帯びたのを壬生は見逃さなかった。怒らせたかな、と壬生が思った瞬間勢い良く龍麻は振り返って大きなボリュームで壬生に食って掛かった。
「ッたくだぜ!お前のせーでいらん連中まで呼び出されてマジ死ぬかと思ったんだからな!」
おや、と壬生は龍麻の言葉に首を傾げた。あの連中、即ち異形達は自分の血の薫りに惹き付けられたのではなかったのか。壬生はまだ龍麻自身について詳しい事は何も知らされていない。
「って、なに呆けた顔してんだよ」
首を傾げる壬生を見て龍麻が口を尖らせた。尖らせたすぐ後、はっと目を丸くする。それから今度は酷く苦々しい顔をしてみせた。よく顔の筋肉が疲れないなと、壬生は的外れな事を思った。
「…ひょっとして、あのオッサン何も話してないのか……」
「君が『トクベツ』ってことだけは、聞いたよ」
壬生の言葉を聞いた龍麻は深々と溜め息をついて、口の中で「あのタヌキ…いつかシメる……つか継承者っつーんだから………てゆーか任務だろ……?いーのかそんな適当で……いやまぁ失敗したとこで…」などとぶつくさ毒を吐いた。口の中でひっそりと罵り終えると満足したのか、龍麻はふんと胸をそびやかして壬生を見た。
「俺はね、あーゆーの惹き付けるわけ。んだけどあの時はお前がいたせいで数が倍だ、倍!いやそれ以上!」
言っている内に怒りが再燃したのか、秀麗な眉がきりりとつり上がっていった。
「普通だったら俺だけで全然平気なのに、お前がいたせいでなぁッ!」
「うん、ごめん」
あっさり謝る壬生に肩すかしを食らったのか、一瞬龍麻の顔から表情が消える。ぽかんとしたその顔があまりに幼くて、壬生はまた笑いをかみ殺した。それが通じたのか否かは分からないが、龍麻は更に憤然とした。
「そ、そうだよ!考えてみればなんで俺が礼とかしなきゃいけないわけ?寧ろ俺の方が詫びいれてくれってなモンだ。クリーニングまでしてやってさぁ!ったく、おかしいにも程があるぜ!」
腕組みをして壬生を睨みつけてくる。綺麗にクリーニングされ、丁寧に折り畳まれていた制服とその下にひっそりと隠されていたクッキーの包みを思い出しながら壬生はまた妙にくすぐったい気持ちになった。
「うん、ごめん」
言った瞬間にどうしようもない笑いがこみ上げてきて、壬生は慌てて下を向いた。それを殊勝な態度と受け止めたのか、龍麻は満足したようにふんと鼻を鳴らした。謝罪の言葉さえ聞いたら満足したのか、龍麻はそのまま玄関に向かった。その背中に壬生が呼びかける。
「お詫び、何がいい?」
「はぁ?」
間の抜けた声を上げながら龍麻が振り返った。
「だから、お詫び。……クッキーのお礼も兼ねて」
精一杯の意地悪のつもりで付け足した言葉は見事に龍麻を直撃したらしい。龍麻は真っ赤になって口を幾度かパクパクさせた。そして思いっきり壬生を睨みつけると、わなわな震えていた。
が、ふと真顔になって呟いた。
「アンヤコウロ」
「え?」
アンヤコウロ、を『暗夜行路』に変換するのには随分と時間が掛かった。真っ赤になって怒り表現していた時とのギャップに戸惑いながら、「志賀直哉?」と壬生は龍麻に聞き返した。
「他に誰が」
呆れた、とでも言いたげな表情で龍麻が壬生を見た。呆れたのはこっちの方だと壬生が内心で呟くと同時に、龍麻は壬生に背を向けた。そのまま正面玄関に放り出されていた真っ青なスニーカーを履くと、逃げるように龍麻は足早にその場を去っていった。
嵐が去った後のようだった。
急にシンとなった放課後の学校で、壬生は動けないままそこに立ち尽くしていた。遠くで虫が鳴いていた。静かだな、と壬生は思った。胸に去来する思いが寂しさなどとは、意地でも認めたくなかった。