重なる -7-




一週間余り経過して、任務は恙無く終了した。
緋勇龍麻の命を狙っていた人物は壬生とは別の暗殺者によって排除され、壬生は警護の任務を完遂した。期間中龍麻に危険が及ぶ事は一切なく、報告に来た壬生に対して鳴瀧は珍しく感謝の意を伝えた。
「あれは気難しくてね。素直に応じてくれたのは、きっとお前が近くに居たからだろう」
やや寂しそうに笑うのは、自らの発言によって大切に思う龍麻に自分が信頼されていない事を再確認したからだろう。
壬生は鳴瀧の言葉に少し首を傾げた。
オマエガチカクニイタカラ…?
期間中壬生はそれこそ四六時中陰から龍麻を見守っていたが、龍麻は全く壬生に気付いていないように見えた。何より自分が潜む方向に目線を向けた事は一度もなかったし、と壬生はここまで考えてはっとした。
「自分が潜む方向に目線を向けた事は一度もなかった」
普通、ある程度の期間尾行していれば不意に標的が壬生の側を見る事はある。それは壬生の存在に気付いたとかそういう訳ではなくてただ壬生が居る方角に標的の気を引く物があるだけだ。壬生を見ている訳ではない。しかし一週間余という長い期間の中で龍麻は壬生が居る方向を見た事は一度もなかった。それはつまり逆に言えば龍麻が壬生の存在を関知していた事にはなるまいか。
龍麻の行動はどれもごく自然で違和感を覚える事は一度もなかった。だからこそ壬生は、鳴瀧が何気なく漏らした言葉を聞くまでそのおかしさに気付かなかった。もしもこれがただの偶然ではなくて龍麻自身の意図の上にあるものだとしたら、不自然な行いをここまで自然にやってのけた緋勇龍麻は一体何者なのか。
鳴瀧が後見人であり、また一時期武術を指導された事があり、徒手空拳陽の継承者であり、異形を惹き付ける特異体質の持ち主、確かにこれらは十分緋勇龍麻がただ者ではない事の証明になる。しかし自分の脳裏に焼き付く年相応かそれ以上の幼さをかいま見せる少年がそれほどの人物のようには正直思えなかった。
ひょっとして、自分は今ひどく面白い人間に出会っているのかもしれない。
風のように去っていた背中を思い出す。一瞬間の、騒がしさを思い出す。
壬生は館長室を辞するとしばし腕組みし、黙考した。やがて腕をほどくと、壬生は静かに歩み去った。

緋勇龍麻の生活は、一般の高校生とはやや異なっていた。
そもそも親元を離れて半分一人暮らしをしている時点で普通ではない。半分、というのは、同居している加津葉紫郎なる人物、聞くところによると鳴瀧と同じく龍麻の師に当たるそうだが、彼女がほとんど一緒に住むマンションに帰ってこないからだ。基本的に世界を飛び回っているらしく、一年の半分も日本に居ないらしい。もともと龍麻は鳴瀧の邸宅に招かれる予定だったが、本人の強い要望でほぼ物置と化している紫郎の部屋に住む事になったそうだ。
龍麻の通う高校は千葉の公立高校で、紫郎のマンションは新宿にあったから、龍麻は一時間近くかけて通学している。
壬生が龍麻を見ていた一週間余のうち、友人を家に招く様子は一度もなく、学校が終わったら寄り道もしないまま帰ってきていた。時折立ち寄るのは書店や文具店で、それも今時の高校生にしてはどうも地味だった。新宿にいるというのに街をふらつく様子もゲームセンターに寄る様子もない。孤独、というには極端かもしれないが、孤立した世界の中で生活している龍麻の生活は、妙に壬生の共感を買った。
もはや見慣れた龍麻のマンションに行くと、逡巡してから壬生はインターホンを鳴らした。こちらを伺うような沈黙の後、扉が開かれた。
「……まだなんかあんのかよ」
不審気に龍麻が壬生を見た。危機が去った事は龍麻も既に聞き及んでいるのだろう。
壬生は龍麻の言葉に、ぶら下げてきたビニール袋を差し出した。
「なに、これ」
「暗夜行路」
壬生の言葉に龍麻の目が少し大きくなった。
「約束してたからね」
龍麻は袋を受け取ると、分厚い二冊構成の文庫本を手に取った。まだ角が丸まっていないブックカバーが掛けられているそれの表紙をめくって、龍麻は内容を確認した。
「わー、マジでくれんの?」
大きな目を見開いて龍麻が壬生を見上げた。先ほどの怪訝な表情は消え、期待に目が輝いている。
「うん」と答えてそのために買ったんだしね、と内心で付け加える。言葉少なに返す壬生に戸惑う事もなく、龍麻は文庫本を握りしめた。
「わーっ、わーっ。マジ、サンキュ。…あんがと」
そういうと、龍麻はくしゃりと相好を崩して笑った。目をぎゅっと細めて眩しそうに笑うその顔を見て、壬生は妙に動揺してしまった。そういえば、一週間近くで見続けたのに、笑顔を見たのはこれが初めてだったなと思う。
「それにしてもなんでこれなんだい?」
動揺を覆い隠そうと壬生は少し早口で龍麻に問いかけた。
壬生の言葉に、よほど嬉しかったのか口元目元に笑みを残しながら龍麻が「ん?」と首を傾げた。
「いやさ、最近志賀直哉にはまってたんだけど、これ高くってさ。しかも二冊だろ?両方買ったら千円じゃん。古本屋で見つけたけど版が古いから読みにくくって、新品で欲しかったんだ」
今月厳しくてさー、と言いながら龍麻はまたにこにこと文庫本の表紙を撫でた。
「お前カバー掛ける派なんだな」
「いらなかった?」
「や。別にいいんだけど、タイトルわかんなくならない?」
「整頓しているから…」
答えながら、なんでこんな事を普通に話しているんだろうと壬生は目眩を覚えた。
龍麻はそんな壬生には一切構わず、文庫本を袋に大切そうに戻した。
「几帳面なんだな、お前。…まぁ、こうしてわざわざ買ってきてくれたくらいだもんなー」
袋を手に下げた龍麻が、しばらく壬生をじっと見つめた。
特に何か感情がこもっていた訳でもないのに、妙に強いその目線に壬生は心拍数が僅かながら上昇するのを感じた。黙って龍麻を見返していると、龍麻の表情が僅かに曇った。
「あの、さ」
言い淀んで龍麻は一瞬言葉を切った。
「あの、ちょっと、寄ってくか?その…折角来てくれたんだしさ」
言いながら誤摩化すように龍麻が笑ってみせた。なんでそこで頷いてしまったのか、壬生は今でも分からない。