重なる -8-




龍麻の部屋に入るのはこれが正真正銘初めてだ。護衛任務に就いた時に龍麻の住居のチェック…盗聴器が仕掛けられてないか等…をしようと鳴瀧に申請したが、必要ないと言われた。何故必要ないかは、入ってみたらすぐに気付いた。
実に強力な結界が部屋全体に張り巡らされていたのだ。
「お前なら、平気だろ?」
龍麻はそう壬生に言った。鍛錬を積んでいない人間だったら、おそらくその結界がもたらす重圧感だけで参ってしまうに違いない。壬生でさえ、多少の息苦しさを感じた。こんなところで毎日生活しているのかと思うと、改めて緋勇龍麻という人間がわからなくなってきた。
結界はおそらく、住人が認めた人間しか出入りできない仕組みになっているのだろう。確かにこれなら盗聴器も仕掛けられないし潜んで急襲することもできまい。無理矢理押し入った際に引き起こされることが具体的に何なのかまでは壬生には分からなかったが、とんでもなく恐ろしい事態だろうという事だけは推測できた。
至る所に咒符が施された室内は、一種異様な雰囲気だったが、それを除けばやや乱雑な普通の部屋であった。男子高校生の部屋にしては広さの割に片付いている方だと思う。
龍麻は居間に壬生を案内するとソファに掛けさせた。革張りのそれは、それなりに値が張る物だと知れた。
「コーヒーと紅茶と緑茶、どれがいい?」
「コーヒーで」
「豆にこだわりは?」
「ないけど」
聞いてくるという事は、複数の豆を揃えているという事だろうかと龍麻の動向が気になった。台所で薬缶を火にかけた気配を察してこっそり振り返ると、龍麻は冷蔵庫から小振りな銀色の袋を取り出していた。そしてどこからかコーヒーミルを持ち出してくると、ダイニングのテーブルの上にミルをそっと置いた。それは黒光りして見るからに使い込まれているミルで、室内用にラフな格好をした龍麻がそれを手にして扱っているところを見て壬生はひどい違和感を感じた。銀色の袋から小さな黒い粒がミルの同じく黒く丸い器に流し込まれ、器一杯になったところで龍麻はミルから伸びる取っ手に掌をかけてぐるぐると回し始めた。
ミルの立てる予想外の騒音に、壬生は少し驚いてまじまじと見てしまう。
それに気がついた龍麻は一瞬手を止めて苦笑して見せた。
「滅多に人呼ばないからさ、好きなように飲んでるから。いつも」
申し訳なさそうに言う龍麻に、壬生はただ黙って頷いた。龍麻は再び苦笑らしきものを浮かべて、それから豆を挽く事に専念した。しばらく激しい騒音が続いたが、やがて香ばしい薫りがうっすらと漂ってきて、最後に騒音は消えた。代わりに台所から薬缶が蒸気を吹き上げる微かな音が聞こえてきて、龍麻はミルを手にしたまま再び台所に消えた。
かなり時間が経過してから、マグに並々に注いだ琥珀色の飲み物と器に盛ったクラッカーを持って龍麻が現れた時、居間中に香ばしい薫りが広がった。
ガラスのテーブルにマグと器を置くと、龍麻は壬生とはす向かいになるように一人がけのソファに座った。
「おいしいよ、多分」
「いつも、こうして?」
手にしたコーヒーを思わずまじまじ見てしまう。壬生を見て龍麻がまた少し笑った。
「始めは師匠の趣味でさ。最近は俺もこれに慣れちゃって」
言いながらブラックのまま口に含んでみせる。目を細めて飲み干すと、インスタントなんてもう飲めないよと笑った。
「あ、そうだ。ミルクとか砂糖は?」
「いや、大丈夫」
そう言って、壬生も口に含んでみた。爽やかな酸味と苦みが口の中に広がる。香ばしい、しかし深みのある薫りが口の中に広がる。コーヒーを飲む度に感じていたえぐみは一切なく、これがコーヒーというものかとまで思った。
「……」
「な、うまいだろ?」
飲み干した壬生の顔を見て、龍麻が悪戯が成功した子どもの笑みを浮かべた。目を細めてにこにこ無邪気に笑う龍麻に、壬生はただ呆然と頷いた。
「師匠がコーヒー狂でさ、一緒に住み始めたら一番最初にこれ叩き込まれた。蒸らし方からお湯の注ぎ方まで。すごかったんだぜー、失敗したら本気でどつかれたし」
その時を思い出したのか龍麻はくつくつ笑った。熱いマグを両手で包み込み、幸せそうにすする。
「俺は本当は紅茶派なんだけどね。だからおっかしいぜ、ウチ。豆と紅茶葉の種類が半端じゃない」
ことりとマグをテーブルに戻すと龍麻はクラッカーを手に取ってぱくりと食べた。
「…すごいな、君は」
素直な感想を述べる。それを聞いた途端、龍麻がむせた。クラッカーにむせ返りながら、慌ててコーヒーでそれを流し込む。
「…っは……はぁっ……」
息をついて龍麻が壬生を睨んだ。
「薮から棒に」
口をへの字に曲げて言う龍麻を真っ直ぐ見返しながら壬生は首を傾げた。
「なんで」
思った通りの事を口にしたのに、何が気に障ったのだろうか。
「だったそんな…いきなり……」
「いきなり?」
「ほ、ほめられたら……ビビるじゃんか」
相変わらず憮然とした表情だが、一瞬龍麻の頬が赤くなったのを壬生は見逃さなかった。
何故だろう、何故自分はこうして一緒にいて不快にならないのだろう。いつもは、いつもだったらこんな風に会いに来る事だって、家に上がる事だってするわけないのに。しかも、不快じゃないどころか自分は、いつの間にか今のこの瞬間を楽しいとすら思い始めている。
楽しい。
一体何年ぶりだろうか、そんな風に思うのは。一人で趣味の没頭している時に感じる充足感とは違う、もっと鮮やかで伸びやかな感情だ。ほのかな笑みを浮かべながら、壬生はもう一度コーヒーを口に含んだ。かぐわしい液体が壬生の喉を潤す。暖かいそれが喉を通って胃に落ちてゆくのが何故だか無償に嬉しかった。
「ッ!な、なにニヤニヤしてんだよっ」
壬生のあるかなしかの笑みを見逃さなかった龍麻が食って掛かった。むきになる龍麻に壬生は「楽しいなと思って」とまた素直に返してみる。なんでこんなに正直になってしまうのだろうと壬生がつくづく自分の奇行に呆れる前に、龍麻が顔を真っ赤にして壬生に食って掛かった。
「おっま……ッ!俺の事馬鹿にしてないか!?」
「してないよ」
「ウソ!ぜぇーーーったいウソ!」
ぎゃんぎゃん喚く龍麻を何故か騒々しいとも鬱陶しいとも思わず、壬生は気がついたら相好を崩して笑っていた。