重なる -9-




あー、こういう時のためにやっぱインスタントを買っておくべきだったか、と緋勇龍麻は後悔していた。
先ほどから壬生の視線を感じる。確かに、一介の高校生がコーヒーミルを取り出してガリガリ豆を挽きだしたら誰だって固まるだろう。はぁっと内心溜め息をつく。
(師匠の、ばか)
面と向かっては、死んでも言えない。というか、言ったら、死ぬ。
壬生に侘びてから豆を挽きだす。最初はコーヒーが嫌いだった龍麻だが、師匠が煎れたものを飲んで考えを改めた。そうか今まで自分が飲んで来たのは泥水だったのか、と。
師匠に豆の挽き方からドリップの仕方、豆の種類の諸々まで叩き込まれて以来、龍麻はすっかりその方法に馴染んでしまった。しかし突然の来客があった時不便な事は間違いない。しかし「突然の来客」などそれこそ年に数回程度だし、今更インスタントを飲む気は自分にはしないし、曲がりなりにも客なのだから折角だから美味しいものを提供したい。と、ここまで考えて、俺って実は飲食店経営とか向いてね?と、龍麻は愚痴った。
そうぐちゃぐちゃ考えつつも、豆を挽いているうちに龍麻はいつものようにささやかな幸福感を感じていた。こうして豆を挽く事が龍麻は好きだった。音は騒々しいけれど、やがて出来上がる素晴らしい琥珀色の飲み物の事を考えると、胸が弾む。
慎重にドリップしたそれを飲んだ壬生の顔を見て、龍麻は満足した。どうだ、自分が今まで飲んで来たのは泥水だと思い知ったか、と。
クッキーへの反応といい、『暗夜行路』の一件といい、調子を狂わされっぱなしなのが悔しくて堪らなかった龍麻は、壬生の一瞬の惚けたような表情に自尊心を満足させた。言ってみれば俺様の実力思い知ったか、である。
紫郎にこれを叩き込まれた過程を軽く話しながら、龍麻の心中はザマーミロという満足感で一杯で、自然と笑い声が漏れた。くつくつと笑いながら熱いマグを掌で包む。伝わってくる温度が痛いくらいに気持ちいい。
それからふとダイニングテーブルの上に置いてある本の事を思い出す。
本当に買ってきたんだなー、と純粋に不思議に思った。確かに鳴瀧はこれを機に親交を云々などと言っていたが、しかし任務中壬生が龍麻に接触してきた事は一度もなく、てっきり壬生にはその気はないものとばかり思っていた。龍麻も壬生が鳴瀧の言うままに馴れ合いたくないと思っているのならばそれでもいいと思っていた。
この運命は、知らないままで構わない、と。
しかし壬生はやってきた。紫郎と自分が住むこの家へ。しかも任務が完了してから、龍麻と関係を保つ必要がなくなった後になって、自分の意志で。
勿論「お詫び」である本を渡す、という名目はあった。しかしそれも龍麻の戯れ言として流す事は十分にできるものだった。実際龍麻は壬生から謝罪の言葉を聞いた時点で満足していたし、相手を煙に巻くために咄嗟に思いついたものを口に出しただけだった。それを真に受けてきっちり持ってきたのだから、これは相当頭が固いなと龍麻は半分呆れた。
それと同時に、迷った。
ここで龍麻がはいじゃさようならと扉を閉めれば、壬生はもう龍麻に関わっては来ないだろう。しかしそうしてやり過ごす事は、出来なかった。
何故ならそれは自分がされて一番不快な事だったからだ。待ち受けている事態を把握していながら本人に伝える事もせず只漫然と待つ事、これは当人に対して失礼だと思うし、何よりも気に喰わない。待つか立ち向かうか逃げるか、決めるのは本人だけだ。その怒りがきっかけで、龍麻は未だ鳴瀧の好意を受け入れられていない。
だから、引き止めたのだ。この部屋に、紫郎の客以外は未だ誰も上げた事がない、この部屋に。龍麻は初めて、自分の意志で人を招き入れたのだ。
自分の選択が果たして正しいのかどうか、いやそもそも正しい選択等存在するのか。そういう苦々しい思いでクラッカーを噛み砕いた瞬間、壬生が突然
「…すごいな、君は」
などと言うもんだから、龍麻は盛大にむせ返ってしまった。慌てて、コーヒーで流し込む。
思わず噛み付いたが、壬生は一向に気にした風もなく、むしろ喜ばせてしまったらしい。仏頂面の笑顔を拝んでしまった。そういえばこいつの笑顔は初めてだと龍麻は思った。笑えるんだな、と。
初めて会ったときからずっと無表情だった少年が、年相応の顔を自分の前でしてみせたのは、確かに我が身を削っての結果ではあったが、それなりに龍麻の自尊心を満足させた。
「ところで前に公園で会った時なんか本読んでたけど、何読んでたんだ?」
柔らかなソファーに身体を沈めながら龍麻は聞いた。この仏頂面の頭の固い高校生が一体どんな本を読んでいるのか興味があった。ドストエフスキーと答えたら全力で爆笑してやろうと思いながら答えを待つと、意外にも
「『Xの悲劇』、エラリー・クイーン」
と返されて、龍麻は思わず「へぇ」と声を上げた。
「推理小説なんて、読むんだな」
「結構好きだけど」
「へー。俺はエラリーとドイルくらいしか読まないなー。あと強いて言うならヴァン・ダイン」
「クリスティは?」
「あ、ダメ、クリスティだめなんだわ俺。最初の展開がのんびり過ぎて飽きて挫折」
確かに、と壬生が頷いてコーヒーを含んだ。壬生としてはそのあとの怒濤の展開が好きなのだが。
「悲劇四部作は面白いよなー。俺すごい好き」
「うん。まだXまでしか読んでないけど、面白いね」
「Xかぁ…ドルリー・レーン超かっこいいよなぁ…」
「そうだね」
「俺、年取るならあぁいう風になりたいなー……って何故笑う!」
龍麻が脚を伸ばして壬生を蹴飛ばした。龍麻のささやかな夢を聞いた壬生は、小説の中の紳士然とした、鋭い洞察力を持つ寡黙な老俳優を思い出して、目の前でマグを両手で抱えながらソファーの上で体育座りをして丸まっている少年と思わず比べてしまったのだ。その理想と現実の隔たれ具合に思わず笑みが零れたというわけだ。
力の入っていない蹴りを膝頭に受けて「零れるよ」と言いながらマグを庇った。
「お、お前なんかサム警視だっ!」
「っく……残念ながら僕はあそこまで太らないと思うけど」
「ふん!わっかんないぜっ、中年過ぎたらブクブク太り出すかも知れないじゃんか!」
憤然としながら龍麻はコーヒーを飲み干した。鼻孔に広がる香ばしい香りを名残惜しく味わっていると、なんでこんなに楽しく話しているんだろうとふと冷静さが帰ってきた。色々な事を思い出して、不意に惨憺たる気持ちに陥る。急に黙り込んだ龍麻を見て怪訝に思ったのか、壬生が首を傾げて龍麻を見た。
それまでの能天気とすらいえる無邪気さは影を潜め、静謐な空気が龍麻を包む。その静けさは、壬生を妙に畏まった心持ちにさせた。龍麻の持つ表情の豊かさに、壬生は戸惑う。明るく馬鹿な事を言ってくれている方が寧ろ分かりやすい。そういう無邪気な人間なんだと括れてしまえたら、どんなに気楽だろうと思う。次の瞬間にどんな表情が現れるのか分からない、分からないから戸惑う。しかも何故かその戸惑いは、決して不快ではないのだ。
「壬生、もし俺が……」
言い淀んで龍麻はじっと宙を見つめた。言い淀む龍麻を壬生はせかすことなく待つ。静かな沈黙が部屋全体を包んだ。
窓の外から冷たい風が吹き込んでくる。もう日は落ちてすっかり暗くなった。窓の向こうでは新宿の街の明かりがヒステリックなほどに輝いている。もう冬だ。11月もあと少しで終わる。寒く、凍てつく、氷の季節がやってくる。
「なぁ、壬生…」
呼びかけて龍麻はまた口をつぐんだ。
大した事ではないのだ。第一言ったところでこの男が頭から信用するかも分からないのだ。しかも二人は出会ったばかりで、そんな人間の心中なんぞ分かる筈もないし、気遣う必要だってあるのか分からない。それでも龍麻は悩んでいた。そうか、これが鳴瀧や祖父が抱えてきた葛藤なんだろうなと、立場が変わって漸く理解した。しかし龍麻はそこで逃げる事を選択できる人間ではなかった。ただ思い悩むのは、自分がこの事実を伝える事が果たして壬生の救いになるのか、それともその逆なのか、である。
何故、気遣う?
龍麻は自嘲した。巻き込んでしまえばいいのだ。そうすれば自分が抱える色々な事をこの男に押し付ける事だってできるのだ。しかし矜持がそれを許す許さないの前に、龍麻は目の前に座るこの男に苦悩を与える可能性について思い悩んでいた。自分の都合のために、実に様々なものを欺き利用し切り捨ててきたというのに。何を、今更。
しかしそう自分で自分をあざ笑ったところで内心の葛藤は氷解したりはしなかった。それどころか思いのほか目の前の男を気遣っている自分を自覚してしまったせいで動揺し、葛藤は寧ろ深まった。
龍麻は深く深く呼吸した。自分の歩んで来た道を思い返した。自分が選び取ってきた事。選び取っていく事。
そう、選ぶのは、本人だ。
人生の替えは利かない。その人の人生はその人が歩み選ばなくてはならない。
そして周辺は、本人から選択の機会を奪ってはいけない。本人から選択の機会を奪う事は、何にも勝る無礼だ。龍麻は、そんな乱暴な扱いを壬生にしたくなかった。理由等ない。ただ龍麻はそう思ったのだ。
龍麻は決意した。居住まいを正すと、今度は壬生の方を真っ直ぐ向いた。迷いを捨てた龍麻は強い。炯とした光を目にもって、龍麻は壬生を見る。その視線に射抜かれるような思いで壬生は龍麻を見返した。
「壬生、表裏の龍についてはなんと聞いている?」
「徒手空拳陰陽、それぞれの継承者としか」
改まった口調の龍麻に、壬生も同様にやや固い響きで返す。壬生の言葉に龍麻はやはりとでも言いたげに頷くと、続けた。
「この流派に表裏があるように、表裏の龍そのものにも裏の意味がある。表裏の龍とはただ流派の継承者というだけではない意味が隠されている。
それは普通の人間であれば一生縁のない世界の話だ。触れようと思わなければ触れないで生きていける世界だ。…鳴瀧ですら、その真の意味を知らない。そういう世界の話だ。けれど表裏の龍ならば、本来避けて通る事は出来ない世界だ。
表裏の龍であるという事はどういう事か、表裏であるが故に何を背負わねばならないのか」
龍麻の目が、壬生を見る。
真っ黒な、夜の闇だ。
闇の底で、炎が燃えている。
「知りたいか?」
龍麻が言った。
「お前はその意味を、知りたいか?」
壬生はそっと目をつぶり、強すぎる龍麻の視線を遮断した。それでも龍麻の痛い程真っ直ぐな光が目の裏に焼き付いて、壬生の心はかき乱された。
自分はおそらく今、人生において大きな選択を迫られている、訳もなく壬生は強くそう思った。そしてそれが間違った予感ではない事を頭のどこかで確信していた。自分を真っ直ぐに見つめてきた龍麻の決意を、自分を導く鳴瀧への忠義を、病床に就く母親への愛情を、一つずつ瞼の奥で壬生は辿った。
母。
日に焼けない肌。透き通るような血管。弱々しい鼓動。細くなってゆく髪。慈しむような、暖かな微笑み。自分をこの、どうしようもない世界に引き止めてくれる、唯一の綱。
「……護りたいものが…あるんだ」
一言ずつ、確かめるように壬生は言った。
「護るために、必要な事ならば。どんな事でも、僕は知りたい」
思いを言葉に変えるその瞬間ごとに、壬生はかつて初めて鳴瀧と対峙した時の気持ちを思い出した。
倦んでいたのだな、と思う。
静かにひそやかに浸食してくる日常という名の魔物に、気付かないうちに大切なものまで見失おうとしていた。龍麻に問われ、決断を迫られ、自分の持つ力に思いを馳せ、壬生は今一度自分自身を見つけた。
壬生の返答を聞いた龍麻は、しばらくそのままじっとしていたが、やがて不意に立ち上がると居間を出てどこかに消えた。そして帰ってきた時には手に何か本のようなものを持っていた。
赤い表紙のそれは糸で閉じられた明らかに相当な年代を経たと思われる書物で、龍麻は無言でそれを壬生に差し出した。
少々黴臭いそれを壬生は黙って受け取った。
「最後の五頁だけでいい。そこに書かれている事を、信じるのも信じないのもお前の勝手だ。信じたくなければ信じなければいい。読みたくなければ読まなければいい。どうするかは、お前が決めろ」
ひどく軽いそれを、壬生は丁寧に自分の鞄に納めた。壬生は本を仕舞い終えるとそのまま鞄を持って立ち上がった。立ち上がった壬生を確認して、龍麻は踵を返して壬生を玄関まで案内した。
「コーヒー、ごちそうさま」
玄関先で靴を履いた後、壬生は今一度龍麻と対峙した。
暗がりの中で龍麻の表情は分からない。しかし壬生は何故か容易にその表情を辿れた。意志の強そうな口元、すっきりと通った鼻筋、大きく強い光をたたえる目。今はきっと、少し不安そうに揺れているのだろう。いささか乱暴ではあるかもしれないが、龍麻が抱え持つ優しさを、壬生はしっかり感じ取っていた。そして優しさの故にこそ、抱く不安も。
しばらく互いに見つめ合った後、壬生は軽く一礼して辞した。
出て行こうとする壬生の袖を、龍麻がはっとして慌てて引き止めた。
「何か?」
「あ……っと、その…」
長身を折り曲げて顔を覗き込んでくる壬生に龍麻は戸惑って一瞬言葉を濁した。
「あの、信じても信じなくても、とりあえず、絶対の絶対に」
「返すから、安心して」
先ほどとは打って変わった子どもっぽい口調に、壬生は笑いをかみ殺して言った。かみ殺して低く囁くようになった壬生の声に、龍麻はまた少し慌てる。慌てる自分の顔を見る壬生の表情が驚く程に優しくて、また一層慌てる。暗がりの中で頬を染める龍麻の動揺には気付かないまま、壬生は戸を開けて外に出た。
外はすっかり冷え込んでいて、吹き込んだ風の冷たさに龍麻は思わず身震いした。肩をすくめる龍麻に壬生は「それじゃ」と言って背を向けた。龍麻は去って行く背中を暫く見送った後、そっと扉を閉めた。
小さな溜め息が、一人の部屋に響いた。