夢妖 -6-




獏とした世界に、龍麻は降り立った。
他の四人は砂に埋もれるように倒れている。最初に起き上がったのは高見沢だった。
「やーん、お砂まみれ〜」
そう言ってぱたぱたと服をはたくと、あっという間に砂は風に散らされ消えて行った。その様を、妙に穏やかな目で龍麻は眺めていた。
やがて他の三人も起き上がった。三人とも、周囲を見渡して瞠目する。
「ここは……」
思わず呟いた京一の声に重なるように、小蒔が声を上げた。
「葵!葵が!」
遠くに、葵の姿が見えた。
天蓋つきの巨大な玉座が、彼方にそびえる。
玉座は足下から天蓋付近までぬいぐるみやロボットや積み木や風船や、とにかくありとあらゆるおもちゃで埋め尽くされており、その中央に絢爛豪華な装飾を施された椅子が据え付けられていた。
そこに、美里葵はいた。
だがその目は閉ざされており、顔色は薄く、力なく椅子にもたれている。
華奢な身体には黒い鉄鎖が絡み付き、椅子に美里を縛り付けていた。
「そんな…誰が、あんな」
「僕さ」
力なく呟かれた小蒔の言葉に、何者かが答えた。
声の主は砂丘の上にいた。
黒い学生服に身を包んだ少年。その隣には、先程小部屋まで案内した女子高生が立っていた。
「僕が、葵を呼んだんだ」
にやりと笑う少年はどこか病的な目の色をしていた。顔のところどころには擦り傷があり、袖から覗く手の甲には大きな絆創膏が貼られている。
どことなく、見ているだけで不安な気持ちになる。小蒔は、怒る事も忘れて身を竦めた。
「名はなんという」
広大な砂漠にあっても、龍麻の声はよく通った。
「……嵯峨野……嵯峨野、麗司」
ぼそぼそとした声が、耳に届く。
「嵯峨野クン…ッ!なんで!?なんでこんな事するの!?」
小蒔が嵯峨野に向かって声を張り上げた。小蒔の必死な顔を、砂丘に立つ二人は冷笑して見た。
「フン…。甘ったれてんじゃないよ!」
「そうだよね…亜里沙……。僕は、僕はこんな素晴らしい力を手に入れたんだ。僕が…望む事は、なんでも叶うようになったんだ!これで葵は僕のものさ!」
ケタケタと、少年は狂ったように声を上げて笑った。
「そんな……葵の気持ちはどうなるのさ!」
悲痛な声で小蒔が叫ぶ。嵯峨野はニヤニヤしながら小蒔を見下ろした。
「葵だって……ここが、気に入る筈さ」
「馬鹿野郎!ンなわけあるか!」
京一が怒鳴りつけて嵯峨野に向かって走り出した。
愛刀は既に袋から出され、両の掌に包み込まれている。臨戦態勢で、京一は二人のいる場所へと駆け上がった。
そして木刀で嵯峨野を斬りつけようとした瞬間、京一の身体は不自然に弾き跳ばされた。
「……ッガ!」
「京一!」
醍醐が叫んで、吹き飛ばされた京一に駆け寄った。怪我は無いが、吹き飛ばされた衝撃で、京一は呼吸を荒くしている。
背中を支えながら京一を起こすと、醍醐は嵯峨野を睨みつけた。
「嵯峨野、力は、こんな事の為にあるんじゃない。違うか?」
「ハンッ!何ふざけた事言ってるんだい?」
嵯峨野の代わりに、藤咲が答えた。
「麗司がどんなメに遭ってきたか知ってるのかい?苦しんで苦しんで……その末に、ようやくこの力を得て解放されたんだ!」
「だからといって、それで人を傷付けていいというわけではない!」
「そうだよ!他の…眠ったままの人だって……」
「連中は、僕をボロ雑巾のように扱ったんだ」
小蒔の言葉に対して、吐き出すように嵯峨野が言った。
その目の奥に浮ぶ憎悪の感情に、小蒔はひっと喉を鳴らした。
「地獄だったよ……そうさ、地獄さ!君達には分からないだろうな!人扱いされない気持ちなんて!」
声を荒げる嵯峨野の脇で、少女が冷ややかな目線で京一達を見る。
「アンタ達に、何が分かるって言うの……いじめられた人の、気持ちなんか」
「そんな……」
小蒔が、反論の言葉を探す。だが、出て来ない。
「地獄のような毎日の中で……彼女が、美里さんだけが…僕に笑いかけてくれた。美里さんさえいれば、僕は……僕は、いいんだ」
嵯峨野は、陶然とした表情で美里の方を向いた。美里の頬は蒼白く、明らかに衰弱している様子だった。
ここが眠りの世界だとすれば、おそらく、美里の精神そのものが疲弊しているのだろう。
「でも…このままじゃ、葵は……」
「諦めるんだね」
愉快そうに嵯峨野が言った。
「美里さんは…葵は、ここで僕と一緒に暮らすんだ、僕と……!」
ぐにゃりと嵯峨野が顔を歪めた。
禍々しい光が宿る目は、完全に正気を失っていた。
与えられた苦しみが、嵯峨野から人間らしい心すら奪ってしまったのだろうか。
「これで僕は解放されるんだ!孤独からの解放!孤独!孤独!孤独!!完全なる絶望!君達には……到底分かりはしない地獄!!」


「嵯峨野、それは嘘だ」


凛と響く声に、その場の全員が動きを止めた。
「う、そ……?」
訳が分からないと言った風に、嵯峨野は呆然と龍麻を見つめた。
衝撃に色を失った嵯峨野の目を見ながら、龍麻はよく通る声で続けた。


「お前が孤独だったとしたら、今お前の隣に立っている者は、お前の何だというのだ?」


二人が、はっと目を見開いた。
「お前達は、支え合ってはいなかったのか?」
藤咲が、先に目を反らした。
「その女は、お前を思ってはくれなかったのか?」
「その女は、お前を助けてはくれなかったのか?」
「本当にお前に味方はいなかったのか?」
「お前は孤独だったのか?」
「本当に孤独だったのか?」
「嵯峨野よ」
龍麻がふわりと首を傾げた。




「お前は、孤独になりたかっただけではないのか?」




「ウルサイッ!」
嵯峨野の甲高い声が響いた。
豪風が吹き荒れて砂を巻き上げた。嵯峨野の激情が、世界を乱す。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!」
ぶんぶんと首を振り回して叫ぶ嵯峨野の肩に、少女がそっと手をかけた。
「落ち着くんだよ、麗司…!アンタは、アンタはこの世界の王なんだから…。アンタに、危害を加える者なんていやしないよ!」
「………亜里沙……」
やや憔悴した表情で、嵯峨野が藤咲を見返した。
「そうだよ…僕は、僕はこの世界の王なんだから……」
自分に言い聞かせるように呟く嵯峨野の姿はあまりに痛ましく、小蒔は思わず目を反らした。
藤咲は小蒔をせせら笑った。
「アンタ達にはね、弱いものの気持ちなんか分かる訳は無いんだよ。ぬるま湯に浸かってきた、お嬢ちゃん達にはね!」
小蒔は、唇を噛んだ。そう、実際、いじめなどに遭遇した事は、ない。
「手を噛まれて初めて虐げている者は気付くんだ!そして…なんでこんな奴がって、怒りだすのさ。…自分が、何をしてきたか忘れてね……!」
憎々しげに、吐き出す。
その様子を、龍麻はまた興味深そうに見ていた。
「嵯峨野」
また、呼ぶ。
「幾年、辛い目に遭った」
「丸二年だよ!丸二年……」
嵯峨野の代わりに、藤咲が答えた。
「二年……嵯峨野、その長きを耐えてきたのだな?」
また、二人の動きが止まった。今度は何を言い出すのかと、震えながら二人は凍りつく。
「二年、耐えたのだ。辛さを、哀しみを、怒りを、憎しみを」
龍麻の口元が、少し微笑んだように見えた。


「それは、強さではないのか?」


「そん……」
「こんな力など持たなくとも、その忍耐の二年こそが、お前の強さではないのか?嵯峨野よ」
「ウルサイッ!」
凄まじい形相で食らいついて来たのは、亜里沙の方だった。
怒りと混乱で美しい顔立ちが醜く歪んでいる。
「アンタ達なんか…!アンタ達なんか…!!」
「憎しみを支えにするな。痛みをこそ支えにするのだ」
亜里沙の声を遮って、龍麻が高らかに言う。
しかし、二人は咄嗟に耳を手で覆った。
「お前なんかに、なにがわかるー!!」
絶叫が荒漠とした大地を貫き、砂と砂の隙間から、亡霊達が姿を現した。
「行け…!行くんだ下僕達……ッ!」
目を吊り上げて嵯峨野が叫んだ。
「あいつを……あいつを殺せェエ!」
龍麻はふいと目を背けた。
その横顔がどこか寂しげであった事に気付いた者は、一人もいなかった。
「私は、貴様等よりも強い」
二人の狂相は、変わらない。
「戦えば、私が勝つ」
きりり、と龍麻が眉を上げて、亡霊達との間合いを取った。
「それでも、戦うか…?」


「かかれッ!」


再び龍麻が顔を上げた時、そこに迷いは無かった。