兄の恋物語 4




「本屋へ行ってくるよ」
「あ、帰りに薬局で飴買ってきてくれませんか?」
 靴を履きながら家の中にそう言えば、廊下にひょこっと頭が出る。
「この間のプリンの?」
 幸鷹が買って来たその飴は、確かにプリンだった。おおプリンだと二人でしばらく感心したものだ。世の中の技術というのは進んでいる。
「えぇ。もしそちら方面だったらですけど」
「わかったよ。買ってこよう」
 そして幸鷹はそれを大いに気に入ったらしい。
 玄関を一歩出れば冬の冷たい空気がわずかに出ている肌を刺す。思わず取って返してマフラーを投げてもらった。ついでに、人ごみの中なんだからとかマフラーを巻くのに邪魔でしょうと髪を緩く三つ編みにされた。いつだったか家に着いたら髪に百円の赤ボールペンが引っかかっていたことがあったのを思い出す。
「それじゃ」
 改めて家を出る。歩きなれた道を通っていつもの駅。今日は反対側のホーム、いつも私が見ているホームへと降り、二駅分。休日ということもあり人が多い。
 いつもの書店へ行き、ざっと店頭を眺める。最近の本はこういうのかと軽く手にとって見たりしつつ、奥の本棚へと足を向ける。
「あ」
 この作家の新刊が出ていたのかと、体の方向を変えた。そのシリーズの続刊が出るのは一年半ぶりか。ざっと目を通すがまだ終わる気配を見せない。それでも今までのは全部あるし続きは気になるので手に取った。その作家の別のシリーズも新刊が出ていて、それとあわせて二冊を買った。
 本屋の近くにある薬局で、幸鷹の言っていた飴を探す。二袋残っていた。ちょっと迷ってから二つ買う事にする。こういうのは見たときに買っておかないと直ぐになくなってしまうから。コンビニで見かけることも無いので、次は何時見つかるだろうか。
 薬局から出て時計を見れば、三時を少し回ったところ。家に帰るにもまだ早いと感じられる時間だ。どこかの喫茶店で時間を潰そうかと、ざっと辺りを見渡す。この辺は繁華街ということもあってチェーン店が結構あったはずだ。別に味に拘るほどコーヒーが好きな訳ではないので、最初に見つけた店に向かって足を進める。
「でね…」
「だからさ」
「そんなことないって」
「兄さん!」
 通りすがる人々は、それぞれ様々な話をしているのだろう。
 人にぶつからないよう道の隅を歩きながら、この喧騒から逃れるためにも喫茶店を目指す。
「もう、兄さん!」
 不意に背中を叩かれた。
「さっきから呼んでるのに」
 くるりと私の前に飛び出した人は、私を見て大いに驚いた。
 その人を見て、私も大いに驚いた。
「ごめんなさい……人、ちがいで」
 そういう彼の言葉はまだ何かを戸惑っているようで。
「いや、別に」
 そういう自分の言葉もどこか虚ろだ。
 だってそこにいたのは毎朝眺めていた彼だったから。いつか会わせてもらうという心構えで今まで生活してきたのにそれをかっ飛ばしてまさかこんな展開だとは。嬉しいが驚く。ひたすらに驚く。
「あ、の……もしかして、鷹通君?」
「はい、そうですけれど……どこかでお会いしましたか?」
「あぁ、すまないね。私は幸鷹の兄で、友雅という」
 そう名乗った私に、鷹通は警戒心を解いたように笑った。
「幸鷹さんの? お会いできて光栄です」
「こちらこそ。いやぁ、話に聞いてはいたけれど、本当にそっくりだ」
「えぇ、私も幸鷹さんに始めてお会いしたときには驚きました」
「鷹通君、時間あるかな? 立ち話もなんだから」
「はい!」
 幸鷹の兄とは言え、初めて会った人間にこうも無邪気に笑いかけるとは。純粋で綺麗な子なのだろうなと感じる。何だかな。好きになってしまいそうだ。



 私はホット、彼はアイスとそれぞれコーヒーを頼み、会話を再開する。
「鷹通君は、幸鷹と同じ大学だって聞いたけど」
「はい、人文の一年です。同じ大学にあんなにそっくりな人が居るなんて思いもしませんでした」
「一年生か。幸鷹は理学の院だしね……大学は楽しい?」
「えぇ。様々なものがあって楽しいです」
 ストローでコーヒーを混ぜながら、鷹通は笑った。
「そう言えば、さっき私を誰かと間違えたようだけど」
「あぁ、先程はすみませんでした。服装や髪型が」
「そんなに畏まらなくていいから」
「すみません。えぇと、兄に、似ていたもので……」
「君のお兄さんに?」
 鷹通は一つ頷いた。私はコーヒーを一口飲んで笑いかける。
「君が弟とは、羨ましい兄上だ」
「いえ、そんなこと」
「本当だよ。君は幸鷹の怖さを知らないからね」
「そんな……」
「あれは外面はいいけれど、私に対しては容赦ないんだ」
「それは家族だからでは?」
 過剰な脚色で語った幸鷹の欠点に、一生懸命鷹通は反論した。短所は長所に、推測だらけではあったが全て結ぶ。あぁ、良い子なのだなと思った。自分を信じ、その自分が見た他人を信じ。今のご時世滅多にいない人間だ。
 良い子なのだと思った。
「鷹通君は、優しい子だね」
「いえっ、そんな」
 真っ赤になった顔がとても可愛かった。その顔を見て更に何かが胸を暖め、思わず手を伸ばし彼の頭を撫でた。
「とも……まさ、さん?」
「あぁ、すまない。幸鷹にやるもんだから、つい。ごめんね」
「いえ……私もよく、兄に頭を撫でられます。幸鷹さんもそうなんですね」
 そっと鷹通は嬉しそうに笑った。
「最近はそうでもないのだけれど……幸鷹には内緒にしておいてね」
 これがばれたら絶対に怒鳴られる。それはそれで日常茶飯事なのだが、まぁ。


 結局二時間ほど居座ってしまい、最寄の駅に着いたのは六時を少し回ったところだった。
「それじゃあ、私はこっちですから」
「気をつけて」
 そう言って手を振り、歩道に足を踏み出しかけたところで、鷹通に呼び止められた。
「あの、友雅さん、携帯をお持ちですか?」
「持っているけど」
「良かったら、メールアドレスを教えていただけませんか?」
「構わないよ。味気ないアドレスだけれど。打とうか?」
「いえ、大丈夫です」
 持ってからそんなに日がたってないのか、もとよりそういうのが苦手なのか、両手でしっかり携帯電話を握り締めアドレスを打つ様子にそっと笑う。
「私は仕事も家もこの沿線だから、何かあったら遠慮なく連絡をくれて良いよ。何かが無くても歓迎する」
「いえ、あのっ……」
 私の声音に、顔を真っ赤にして鷹通が顔を上げる。でも、そのあと私の眼に滲んでいたであろう悪戯の光を見て、もう、と笑った。
「送りました」
「うん、今来たよ。登録する」
 カチカチと、数回指を動かし特別な番号を登録した。
「それじゃあ」
「おやすみなさい」
 お互い反対方向へ足を進めながら、時に振り返って小さく手を振った。先に角を曲がったのは私の方で、しばらく歩いてから携帯を取り出し、そこに最新の情報を表示させる。普通の文字列がその順番において特別な意味を持つその情報。優しい暖かさが胸に満ちた。
「なんだかな」
 全然悪くない感じなのが、何ともいえない。
 四半世紀を当に越え、こんなほのぼのとした気持ちになるとは考えてもみなかった。
 ふと、私は手に持っていた袋から、薬局で買ったプリンの飴を取り出し、一粒舐めた。プリンの味と香りが広がって、こんな感じかなと、幼く拙い言葉しか思い浮かばない自分に苦笑した。
 どんなに取り繕ったって、行くとこまで行ったら簡単なんだこんなことはきっと。


 目の前に見えてきたコンビニでプリンを買って帰ろうかと思った。
 きっと幸鷹は驚くだろう。



3← →5