追憶の緋 -8-
俺は全速力で走った。
途中ムゥやアルデバランが声をかけてきたが、そんなもの当然無視だ。
カミュの小宇宙は訓練場を抜けて塀を越えた更に先、つまり黄金聖闘士の生活場所ではない、雑兵や見習い達がウヨウヨ入る辺りで爆発していた。
危険だ。
カミュの存在はまだ公表されていない。カミュがアクエリアスを継承する事はもはや決定事項だが、まだ一般人と実力はさして変わらないカミュはその存在が伏せられていた。
だから塀を越えるなと言ったのに。
塀を越えたらカミュは部外者、侵入者も同然だ。そんなカミュと哨戒中の兵士とが鉢合わせでもしたら。
最悪だ。
何をされるか解ったもんじゃない。聖闘士と言ったって、全員が全員善人じゃないし、むしろ教皇の目の及ばない背後では相当汚い事がまかり通ってる。
何回も言っただろう!
俺はここにはいないカミュに毒づいた。塀を越えるなと、何回も言っただろう!
俺は全力で走った。
急がないと。
未熟な小宇宙は危険だ。本人も周りも。
「カミュ!」
俺の視界に赤い髪をした子供と、逆巻く凍気が飛び込んできた。
カミュだ。
それと、数人の兵士。地面に転がってもなお燃える松明を見る限り、哨戒中の兵士だろう。それが数人、地面に尻餅をついて震えている。
見れば事態はすぐに解った。
カミュの服は所々破れていた。それは自身の小宇宙の暴走によって生じたものではない事は、一目で分かるもので、俺は盛大に舌打ちした。
馬鹿野郎!
それは誰に向けられたものかは解らなかったが、とにかく俺は焦燥した。
カミュの全身は細かく震え、喉の奥からは絶叫が吐き出されている。
制御が効かないのだ。
感情も、小宇宙も。
このままでは、死ぬ。カミュも、兵士も。
俺はカミュの前に飛び出した。
「落ち着け!カミュ!!」
「わ、ぁ…あ、ヤダッ|!やだぁッ!!」
カミュの目から涙が飛び散る。俺の姿を見て、凍気は増々膨れ上がった。
氷のつぶてが俺の体を打つ。
俺は迷う事なくカミュに近づき、ガタガタと不自然なくらい震えるカミュの体を力一杯抱きしめた。
「落ち着けよ、馬鹿」
「やだっ!やだっ!やだぁッ!!」
カミュは全身で俺を拒否しようとした。
だがそれぐらいで俺は引いたりしない。これは、俺がつける落とし前だ。
「落ち着けよ、馬鹿」
俺は繰り返した。
「大丈夫だって、言ってるんだよ」
カミュの氷が、聖衣を纏っていない生身の俺を傷つける。
痛ぇなぁ、ちくしょう。
いい加減にしろよな。ったく。血が出てるじゃねぇかよ。俺からも。カミュからも。
力の制御もつかねぇのに自暴自棄になるからだ、馬鹿。
俺はカミュをきつく抱きしめた。
「いい加減にしろよ、周りが、迷惑するんだよ」
カミュは相変わらず口の中で「やだ」を繰り返している。
震えは、納まらない。カミュの小さな手が、俺の服の袖を力一杯握りしめている。見開かれた目からは、止めどなく涙が溢れ出している。
「やだっ、やだっ!なんで、なんで、こんな、やだよぉ」
しゃくり上げながらカミュは言った。
「落ち着け。そうしたら納まるから」
「でもっ!だって、だって、デスマスクがっ!」
カミュの動揺に合わせてつぶてが一層激しく俺を叩く。
背中の皮が破れて、血が流れ出るのが解る。
きっと、カミュからはそれが見えるんだろう。
俺はカミュを一回ひっぺがして胸の中に抱き込んだ。これなら、血は見えない。
俺は苛立った。
早くしないと。
早くしないとカミュの体がだめになる。俺のせいで、仲間が死ぬ。
どうせ死ぬ運命だがな。聖戦ではきっと、全員。
死ぬんだろう。
でもまだ今はその時じゃない。
自分の意志で生きれなくても、命令次第でどんな人間でも殺す狂犬になっても、女神なんかのために死ぬ運命にあっても、今はその時期じゃない。
今は、死ぬ時じゃないんだ。
「いい加減にしろ!落ち着けば納まるんだよ!」
「でも、でも、だって…ッ!」
のどを震わせてカミュが言う。
「大丈夫だっつってんだろう。俺がいるだろ。信用しやがれ、この馬鹿」
俺はカミュを抱きしめながら背中を撫でた。
いつか。昔。俺が誰かにされように。
もう顔も声も何も覚えていない、誰かにやってもらったように。
カミュは俺の腕の中でしゃくり上げながら、泣いた。
それでも俺は背中を撫で続けた。
泣き声はしばらくして止み、体の震えも徐々に納まっていた。
ただ、呼吸だけが荒い。
次第に凍気も弱まり、雹も消えていった。しばらくして、辺りはいつも通りの夜の静寂に包まれた。