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放課後の音楽室は淡い夕日に照らされて、綺麗だ。
黒塗りの大きなグランドピアノ、整然と並べられた机と椅子、教室の片隅を占めるオーディオ機器、壁に貼られた偉大なる作曲家達の肖像、それらが暖かいオレンジ色の光に照らされ、まるで懐かしい思い出のなかにいるようだった。
鍵盤の白が今は淡い朱鷺色だ。そこに取手は細く長い指を乗せ、思うように指を走らせた。静かな音が、下校時刻を過ぎた校舎に響く。
鳴り響く音に混じる足音を、取手は敏感に聞き取っていた。その足音のリズムを、知っている。人知れず取手の口元には笑みが浮かんだ。
軽く軋んで引き戸が開いた。戸の向こうには案の定、夕日に照らされた葉佩九龍が立っていた。詰め襟を几帳面にきっちり着込んだ姿は、日本人男性の平均を下回る身長も相まって、高校生というよりは中学生のようにも見えた。
「帰らないんですか?」
「君こそ」
見慣れた微笑を浮かべて、九龍が言った。
下校時刻は過ぎているなど、九龍達にとってはどうでもいい事だ。もしも知らない執行委員に出くわして面倒な事になっても、逃げ出す事もやり合う事も二人にとっては雑作ないことだった。毎晩のように行われる遺跡の探索は、彼らの戦闘能力を飛躍的に向上させていた。
「何か弾こうか?」
「音楽はよくわからないのですけど、お願いします。なんでも、取手君の好きな曲を」
崩れない微笑のまま、九龍は言った。手近な椅子を一つ手にしてピアノの前に座る取手のすぐ近く、ピアノの脇に置いた。
「…近いね」
「邪魔ですか」
「いや…」
九龍はそのまま椅子に座った。
幾度か彷徨うように取手の指が幾つか黒白の鍵盤を弾いた後、演奏会が始まった。
最後の一音が空気に吸い込まれたか吸い込まれないかの微妙な瞬間に、九龍は拍手を打った。
すっかり日が落ち、教室の中も薄暗く鍵盤の白だけがぼぅっと浮かび上がっている。
絶妙なタイミング打たれた拍手に、取手は一礼で答えた。
「とても、素敵でした」
「そう」
「音楽の事はよくわかりませんが、取手君の奏でる音楽は、すごく優しい響きですね」
にっこりと笑みを深めて言う九龍の方に、取手は身を乗り出した。
「嘘吐き」
ガタンッ
取手の言葉に、九龍が音を立てて立ち上がった。
「え…な…に、を?取手君」
口元には相変わらず微笑が浮かべられているが、目は笑っていない。
微かに引き連れた頬を無感情に見ながら、取手は答えた。
「そんな事、欠片も思っていないんだろう?本当は」
取手も椅子から立ち上がる。九龍はそのまま動かず、取手の浮かべる柔らかい微笑を見ていた。
九龍の上にかがみ込むようにして背中を丸める。左手はピアノに、右手はだらりと垂らす。椅子と取手に阻まれて、九龍は逃げ場を失った。
「本当は、何も感じてないんだろう?」
「そんなこと、ありませんよ」
いつもの微笑に、取手も微笑みで返した。
「っ!?」
だらりと垂れていた手が九龍の髪を掴み、無理矢理に顔を上げさせる。
「嘘吐き」
笑顔のまま、取手の手先が器用に九龍の学ランのホックとボタンを外していった。
九龍は呆然とした顔のまま、成すがままだった。
学ランのボタンが全て外され、ワイシャツのボタンに指が掛けられても、九龍は髪を掴む手を払う事もなく、取手の笑顔を見ていた。
やがて取手の指がベルトの金具に絡んだ時になって、ようやく声を上げた。
「な、ちょ…!何を…!?」
「さぁ、何だろうね」
暴れようとする九龍の髪をよりいっそう強い力で掴む。武器があれば確かに葉佩は取手に勝っているかもしれないが、単純な力技になれば体格で勝る取手に軍配が上がる。その上、繊細な取手の指は九龍に負けず劣らず、器用だ。
恐怖感や警戒感よりも戸惑いが先立っているのか、取手に固められると九龍は抵抗を弱めた。取手が何をしたいのか、測るように目を走らせる。
「取手君、何を…」
取手の指先がベルトの金具を外し、ズボンのボタンに伸ばされる。
「まだわからないの?」
九龍の見開かれた瞳に映る微笑みは、ひどく甘く、優しい。
「君は今から僕に、犯されるんだよ」