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その夜からだ。
取手は九龍を抱かなくなった。連絡が、こない。
四日経っても五日経っても、何事もなかった。安堵よりも困惑が先立つ九龍は、試しに六日目の晩に取手と皆守とで遺跡に潜ってみたが、恙無く任務が果たされ終了した。この後部屋へと誘われるかと思っていたが、結局三人仲良くそれぞれの部屋に帰った。
なんなのだろう、と九龍は首を傾げた。取手の考えが、読めない。
翌日の事だった。昼休みに皆守と取手と三人で昼食をとった。保健室に寝にいった皆守を起こしにいったら、偶然隣に取手が寝ていて、そのまま一緒に食べる事になったのだ。取手はオムレツ、皆守はカレーライス、九龍は天香定食といつもの献立だ。
下らない話しを綿々としながら、食事が進む。会話が一瞬途切れた時、隣に座っていた取手が不意に九龍の顎を掴んで自分の方を向かせた。突然の事に成すがままにされると、取手の長い指が九龍の唇を端からなぞった。指先にカツ丼のものだろう、色づいた卵の欠片が着いている。それを取手はぺろりと舐めとった。
その仕草が、目つきが、九龍に濃密な夜の時間を思い出させる。瞬く間に耳まで赤くなった。
が、幸い皆守はそれを別に受け取ったらしく、「お袋か、お前は…」と呆れたように取手を見た。
取手は無垢な顔で首を傾げた。それを見て皆守が嘆息する。
「つくづく変な奴だよな、お前って」
「皆守君程じゃないよ」
「俺は常識人だ」
「じゃ、九龍君程」
「ん?あぁ、それならまぁいいか」
「って、どういう意味ですか皆守君」
流れる会話にそのまま乗っかってしまえば、動揺は隠せる。
しかし九龍は、自分の奥に燻る熱を自覚してしまった。そしてそれは、容易に慰められるものではなかった。

授業に探索と、立て続けに起こる日々の事が終わり深夜の部屋に一人になると、それまで紛れていた熱が再び燃え上がる。誰に見られているというわけではないのに、九龍は激しく赤面した。まさか自分が、と思う。
ロゼッタの養成時代に同期と下の話を全くしなかったわけではない。しかし実際九龍にはそれがどういうものか全く自覚できなかったし、知ろうとも特に思わなかった。つまり興味が全く涌かなかったのだ。そんな自分が、真夜中に一人、甘い疼きを持て余している。
自分の身体が、快楽を欲している。一人になるとその自覚は深まるばかりだ。そして自覚が深まる程に、羞恥心よりも熱が高まってゆく。
自分で処理する方法を知らないわけではない。今までだって必要に駆られて幾度か処理した事はあった。しかし今、自慰をすればそれは今までの義務としてのそれとは全く異なる意味と感覚を自分に与えるであろう事は、容易に想像がついた。
これを悶々と言うのだろうなと、九龍はぼんやり考えた。滑稽な有様だ。
ぱんッと、自分で自分の頬を叩いた。このままではいけない。せめて夜風に当たって頭を冷やそう。九龍は外へ出た。

なんでやねん…と、何故か関西弁で突っ込みを入れてしまう。
夜風に当たって頭を冷やそうと思った。そして外に出た。そうしたらば存外に秋の夜風は冷たく、ちょっと屋内に入りたくなった。目の前にあったのは校舎だ。つい先日手に入れた鍵で早速侵入する。
そこまでは、いい。
なんで、自分は、音楽室の前にいるのだ。
音楽室の前で思わずがっくり膝を着いて溜め息をつく。もう、病気ではないか。自分の愚かさと浅ましさにほとほと愛想が尽きる。もう一度深々と溜め息をつく。しばし逡巡し、鍵束から音楽室の鍵を選び出し、差し込む。
がちゃり
渇いた音が冷たい廊下に響いた。戸を開けようと鍵を引き抜き手を掛ける。
がたっ
「…?」
解錠したはずなのに、開かない。何事だろうと鍵をまじまじ見るが、間違いなく音楽室の鍵だ。少し考え込んで、鍵を入れて回して施錠されたということはつまり、最初から解錠されていた、という事ではないだろうかと、そこまで思考が及んだ瞬間、扉が再び「がちゃり」と音を立ててそして、開いた。

「いらっしゃい、九龍君」

今一番会いたくない人間が、立っていた。


取手は音楽室の戸を大きく開くと、踵を返してピアノの前に座った。
「ピアノを、弾いてあげようか…?」
このなんのこともない言葉も、九龍の背筋を逆撫でる。
「どういう、つもりですか」
イライラした口調は自分らしくない、と九龍は思う。
しかしそれを隠す事は出来なかった。
「どういうつもり、って…?」
長い腕をだらんと垂れ下げながら、ピアノの前で取手が言った。
「こんな…夜中に、こんな所に…」
憤りに声が震える。
「僕が、君を待ち伏せていたとでも思っているの?」
首を傾げると、黒い髪が音をたてて揺れた。どこか愉快そうな声に、九龍の頭に血が昇る。
「取手君は…ッ!」
らしくもなく声を荒げる。
自分を睨みつけてくる九龍を見て、取手は手負いの獣をなだめるかのように、優しい声と顔で、言った。

「ねぇ、もしそうだとしたら、どうする…?」

九龍の表情が凍り付く。慈しむような笑顔で取手は九龍を見つめた。
「僕がここ毎晩、ここで、君を待っていたのだとしたら……君は、どうする…?」
包み込む様な優しい声に、九龍は目眩を覚える。自分は今幻想でも見ているのだろうか。幻想?だとしたらそれは誰の願望なのだろうか。自分の?取手の?そもそも幻想の根底にあるのは願望なのだろうか。しかし、だとしたら…。
「ねぇ、九龍君」
ゆらりと椅子から立ち上がる。
小柄な九龍を遥かに超える長身を折り曲げて、九龍の顔を覗き込む。
「僕のものに、なりなよ」
暖かい笑顔はそのままに、取手は九龍の首に手をかけた。
「僕だけを見て、僕だけを感じて、僕の事だけを考えて…」
九龍の首を掴む指先に、力が入った。恐ろしい事に、それは九龍の頸動脈を正確に抑えていた。

「僕に縛り付けられて僕だけを求める、僕だけのものに…なりなよ」

自分の鼓動が跳ね上がり、脳内を今まで感じた事がない感情が駆け巡るのを感じた。これはなんだと思った次の瞬間にそれの名前を思い当たり、九龍は真っ赤になって取手を突き飛ばして一目散に駆け出した。
独り残された取手は、一瞬無表情に戻ると、次には酷薄な笑みを浮かべ、音楽室を出た。
その歩みは緩慢で、一歩一歩踏みしめるようであった。静かにゆったりと、時間をかけて歩いていった先は、男子寮の九龍の部屋であった。扉の向こうに、九龍の気配を感じる。
にやぁっと、取手の口元がつり上がる。扉に手をかければ、不用心なことに鍵は掛かっていなかった。喉の奥で、嗤う。音を立てて、扉が開いた。長身を僅かな扉の隙間からすべりこませると、後ろ手で扉を閉める。
ぱたん…………がちゃっ……
真夜中の廊下が再び沈黙に包まれた。