靴下の秘密 -下-
「悲しい?」
「うん。悲しい」
表情は平素と全く変わらないまま葉佩が言った。
「ねぇ…なんでだろ。俺……なんで、悲し…のかな」
涙のせいでうまく言葉が紡げない。
たどたどしい口調で葉佩が取手に尋ねるが、取手は首を傾げたまま答えない。
「ね、ど……しよ。こん、な……」
ぱたぱたと、涙だけが頼りなく落ちる。
「……君が分からないなら、僕にも、分からないよ…」
目を反らして、取手が言う。
取手に答えるように、葉佩が鼻をぐすりと啜った。
途方に暮れて視線を泳がせる。正直、深く考えるのは質ではない。自分よりも抽象的思考が得意であろう取手にも分からないとなると、葉佩はお手上げ状態となってしまう。
しばし無言が続いた。
涙は、止まらない。
「俺……俺、そう言えば、泣いた事って、ないや」
ぼんやりと、独り言のように葉佩が言った。
「ちっこい頃はコケて泣いたりしたけど…日本出てからずっと……もう8年かな?何年だろう、覚えてないけど……」
取手は盗み見るようにちらりと目を葉佩に向けた。が、葉佩は取手の視線には気付かず、見るともなく空間をただぼんやりと眺めている。
「悲しいなんて……何年、振りなんだろうな。悲しい事なんて、なかったもんな……。欲しいものは、問答無用で手に入れてきたし飽きたら……」
「捨ててきた?」
苦々しい口調で取手が吐き出した言葉に、葉佩はようやく取手を見た。
葉佩を見る取手の目の奥には、押し隠された激情が渦巻いている。葉佩は思わずその炎をまじまじと見つめた。
「そう………そう、だな…捨てて、きたな。捨てて……捨てた?」
葉佩は考え込むように視線を落とした。
「いや、それは…………違うな」
魅入られるようにして、葉佩が小さな声で囁く。
「だって俺は、ずっと………何も、手に入れては、こなかったもの」
穢れを知らない子どものような目に、目の奥に燃える取手の激情が揺らいだ。
だが葉佩は気にも留めないで取手を真っ直ぐに見つめた。
「そうだな……俺は、何も手に入れてはこなかった。確かに宝探し屋だかんな、色々探し出したりはした。でも…それの内のどれも、俺のものじゃなかった。人も……同じだな。だって俺は、他の人間なんて、どうでも良かったもの」
取手にだけではなく、自分に向かっても葉佩は語り聞かせた。
「だけど、なんでだろう。なんでお前とはそういう風に、適当に付き合えないんだろうな。なんでこんな風に突っかかちまうんだろうな」
黒い瞳がまじまじと取手を見つめた。
葉佩の無表情は、そういえば滅多に見なかったななどと、取手は頭の片隅で思った。
射抜くような視線で葉佩はしばらくの間ぶしつけに取手を見つめ続けた。
が、沈黙の後、ふと葉佩が漏らした。
「そっか」
葉佩の目の色は、ひどく柔らかいもので、取手は思わず惹き込まれた。
「俺、お前のこと好きなんだな、きっと」
にこりと、葉佩が笑った。
いつもの自身に満ちあふれた傲岸不遜な笑みでも、人を喰ったような笑いでもない。ひどく穏やかで、子どもを見守る親のような微笑みだった。
取手は呆気にとられて、葉佩を見る。
葉佩はにこにこしながら取手を見つめた。
「あーまー……不本意っちゃ不本意だけどなー。仕方ねっか、好きになっちまったもんは好きになっちまんたんだもんなー」
急に葉佩の声が生き生きと輝きだした。
明るい表情のまま、葉佩はそっと取手に手を伸ばした。
「いや〜、まさかこんなトコで人に惚れるとは思ってなかったなー。しかも男だもんな〜。俺も大概イカレてるわ」
涙はもう流れていなかった。
憑き物が落ちたようにすっきりとした葉佩を見て、しかし取手の表情は急激に曇った。
頬に向かって差し伸ばされた葉佩の手を、取手はその長い指で振り払った。
軽い音を立てて振り払われた手は、行き場をなくして宙を彷徨った。
「ふざけないでくれ」
取手の口から出た声は、深い怒りに満ちていた。
「ふざけないでくれ」
もう一度、言う。
葉佩は、取手の怒りの視線を真正面から受け止めた。
「うん、ふざけてねーよ?」
「嘘だ」
「なんでぇ」
「君が、なんで僕を…好きになるんだ?」
「ソックリソノママオ返シシマース」
すっかりいつもの調子を取り戻した葉佩が、ニヤッと笑った。
「なんでかとかなんとか、そんな知るかボケ。好きになる時ぁ好きになるんだよ。そーゆーもんだろ、コイってのは」
「そう言って……どうせ、すぐに飽きるんだろう?」
「さぁね〜。ただまぁ、カミサマの言う通り、ってね」
ひょいと肩を竦めて葉佩が言った。
取手の激情が、目の多くで燃え上がる。
「君は……そうやって、僕を傷付けて、楽しいのかい……?」
唸るように呟くと、取手は葉佩の身体をベッドに叩き付けた。鈍い衝撃が、葉佩の背中を襲う。
ぎしりと歪んだ音を立てるベッドに構う事なく、取手は葉佩にのしかかった。
「僕が…こんなに、こんなに君を好きなのに……君は………」
じわり、と、取手の目に涙が浮かぶ。
取手の細く長い指が、葉佩の首に絡み付いた。
少しずつ、体重をかけてゆく。葉佩の喉が、徐々に圧迫されてゆく。
葉佩は何故か、声も上げず顔色も変えず、ただじっと取手を見上げた。
「なんで君は……僕だけのものにならないんだ……なんで………」
ぱたぱたと、熱いものが葉佩の顔に掛かった。唇にも掛かったそれを舐めとれば、ひどく塩辛かった。
唇を噛み締めながら、取手は息を殺して泣いた。
「かま……ち」
苦しそうな表情を押さえ込んで、葉佩が笑った。
いつもよりも心なしか体温を失った指先が、取手の頬を撫でる。
後から後から流れる涙をぬぐい、ぼさぼさの頭を力なくかき混ぜる。
「僕は……君だけが、好きなの、に……君、だけが………な、のに…君は…きみは……ッ」
葉佩の首を締め付けていた指が、突然ほどけ、取手は葉佩を抱きしめた。
きつくきつくきつく、葉佩の骨が鳴るほどにきつく、取手は葉佩を抱きしめる。
葉佩は取手に身を任せ、そっと手を背中に置いて目を閉じた。
取手のしゃくり上げる声だけが、部屋に響く。
短く切られた爪の先が、葉佩の首に肩に背中に食い込む。
呼吸もままならない様子で泣く取手は、駄々をこねる子どものうようでありまた、悋気に苛まれる鬼女のようでもあった。
ひとしきり泣き、涙と共に激情を流しきった取手の背中をゆっくりと撫でながら葉佩が囁く。
「お前は、お前だよ」
子守唄の様に、葉佩が囁く。
「俺は俺だし、お前はお前だ。誰のものでも、ない。でもだから……俺はお前を好きになれて、お前は俺を好きになれる。他の誰でもない、自分自身の心で。……違うか?」
取手は、無言だった。
沈黙したまま、葉佩に縋り付いて離れようとしない取手の背中を、葉佩はゆっくりと撫でた。
「なぁ……」
葉佩が静かに取手に語りかけた。
「お前、俺の事好き?」
こくり、と取手が頷いた。
ぐすりと鼻を啜る音がする。
「……………好き、だよ…」
「うん」
枯れて掠れた声で取手が言う。葉佩は頷いて、取手の頭を撫でてあやした。
「……好きだよ」
「うん」
「すごく、すごく……誰よりも、何よりも………僕は、僕は………君が、好き」
「うん」
「………好きなんだ…」
涙に歪んだ顔で取手が葉佩を覗き込んだ。今にも喰い破りそうなほどに噛み締められた唇は蒼白い。
取手の顔を両手で包み込み、葉佩は痛々しい唇にそっと口づけた。
「泣くな」
「君が泣かしてるんだ」
ぐすりと取手が鼻を啜って目をこすった。
「でも泣くな」
「自分勝手だね」
「おうよ」
葉佩は再び口づけた。
柔らかな感触が切なくて、取手はまた泣いた。
「こうされるの、辛いか?」
「……辛い、けど…………」
「けど?」
「されなくなる方が、辛い」
「ん」
また涙を零す取手に、葉佩はしつこくキスを与えた。
「やめねーから」
「………」
「いつでも、してやっから」
「………つき」
「嘘じゃねーよ馬鹿」
震える取手にしっかりと抱きつきながら、葉佩は幾度も幾度も口づけた。
瞼や頬に付いた涙は、舌ですくって舐めとった。塩辛い味に、葉佩は少し笑った。
「嘘、つかないから」
「…………本当…?」
「ほんと」
「本当に?」
「ほんとだって」
「信じていいのかい………?」
「信じろ」
強い目で、葉佩が言う。
「俺を信じろ、取手鎌治」
あぁ、この色なのだと取手は思う。
迷い無く、戸惑い無く、己の信じた道を貫いてゆく強い強い光。
暗闇の底にいた取手を、いっそ乱暴なほどに引っ張り上げてくれた強さ。
自分にはない輝きだからこそ、憧れる。憧れるからこそ、憎いと思う。
決して届かない場所に愛しいこの人は立っているのだと思い知らされるから。
この光を愛するが故に憎い。けれど失う事はもっと辛い。一度光を知ってしまったら、二度と話す事は出来ない。麻薬よりも、質が悪い、
どうしようと、取手は考える。
どうすればこの光を失わないで、しかもこの光を殺してしまえるのだろうと、無邪気に取手は考える。
「………僕は、捨てない…?」
「まぁ、今んとこ、その予定は無い」
取手は考える。
この人はいつか必ずこの場所を去ってゆく。その時自分はどうしよう。
この人はいつかおそらく自分に飽きる。その時自分はどうしよう。
どうしよう。
取手の頭に、ふと先程の葉佩の言葉が蘇ってきた。
…欲しいものは、問答無用で手に入れてきたし……
そうか、と取手は気付く。
欲しければ、手の内に留めたければ、そうしてしまえばいいのだ。思うがままに、自分の、望むがままに。
にぃっと、取手は笑う。
「……信じるよ………その代わり」
「僕を捨てたら」
「君を、もらうね」
その肉体も魂も。葉佩が抗おうが拒否しようが。そんなことには構わないで。
葉佩が今までやってきた事をするのだ。葉佩に拒否する権利は無い。
一度でも受け入れたから悪いのだ。
あの時、取手が葉佩を押したしたあの時、葉佩が本気で抵抗すれば取手は葉佩を抱いたりしなかった。もし無理矢理にでも抱こうとしたとしても、葉佩が本気で抗えば取手などに易々と組敷かれはしまい。
それにその後も。葉佩は、取手の誘いを拒みはしなかったのだ。
「………君がいけないんだよ…?」
今すぐにでも葉佩を殺してしまいそうな程に美しい笑顔で、取手が葉佩に囁いた。
「僕を好きになった、君が悪い」
あぁ、醜いこの自分は、きっとこの光を穢すのだろう。けれどこの光は決して穢されきることはないのだろう。
痛い痛いと嘆きながら、それでも自分は自らを焼くこの光を求め続けるのだろう。
愚かだと笑われるだろう、醜悪だと罵られるだろう、卑しいと嘲られるだろう。
それでも構わない。それでも構わないから。
「泣くな」
葉佩が取手の涙を拭う。
「泣くな……」
交わした口付けは、痛い程に温かかった。
「……という経緯で仲直りしましたん♪」
「……逐一報告ありがとうよ…ッ!」
翌日。葉佩は皆守と共に屋上にいた。
「わぁ!甲太郎に感謝されちゃった♪」
「……死ねッ…お前は本当に一回死ね…!」
「やだ甲太郎〜、人は一回しか死ねないよーぅ」
にこにこと笑う葉佩を見て、皆守は腹の底から深々と溜め息をついた。
会えばこうなる事が分かりきっていながら、相も変わらず二人揃ってサボりである。
鉄柵に寄りかかりながら皆守が葉佩を横目で睨む。
「ていうか九ちゃんさ…結局何も解決してないだろうが、それ……」
「やだー、心配してくれてんの?甲太郎ってば優しい〜」
ニヤつく葉佩を、今度こそ本気で皆守は睨みつけた。
「っとと、そんな睨むなよ」
ニヤリと不敵に笑う葉佩に、落ち込んでいた昨日の面影は欠片も無い。
が、皆守にしてみれば、昨日よりも今日の方が事態は悪化しているように思えてしょうがなかった。
「まー、なんつーか甲太郎の言いたい事も分かるけどさ〜」
言いながら葉佩はすっきりとした顔で空を見上げた。
高い空だった。
冬の澄んだ空気が満ち始めている。
「恋は確かに複雑怪奇だけど、それに負けないくらい単純極まりない代物なわけね?大丈夫大丈夫、絶対なんとかなるし」
葉佩の目の奥に宿る優しい光は、ただ一人に向かって投げかけられる光だ。
「大した…自信だな」
一抹の痛みを抱えながら、皆守が言う。
「おうよ」
ニヤリとまた葉佩は笑った。きらきらと、眩しい。
「だってほら。愛でしょ、愛!」
皆守は、咄嗟に目を細めた。